ここしばらく

ある日。電車内、週刊誌の中吊り広告。グラビアのキャッチコピーは「25歳。遅咲きのシンデレラストーリー」。同い年の女性がビキニ姿で。自分は遅咲きですらない。何者にもなれず青年と呼ばれる時代も終わる。

ある日。友人たちと酒を交わす。久しぶりに飲みすぎたようで記憶に残るのは言葉の残骸だけ。本当にどうしようもなかった自分の中学時代のエピソードトークをある種の不幸自慢だと指摘されたことは覚えている。少し熱くなった。結局終電を逃す。同方向の友人がいたので、タクシーを拾うことに。せっかくだから一駅分歩こうということで、夜の東京を闊歩した。どうしようもないのだけど、何か美しさを感じた。何者にもなれずにここまで来たが、こういう一瞬に少し救われたりするからまだまだ生きられる。

平賀さち枝とホームカミングス「かがやき」

 

かがやき/New Song

かがやき/New Song

  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

平賀さち枝とホームカミングスの新曲『かがやき』のPVが公開された。『白い光の朝に』で奏でた何もかも肯定する絶対的な多幸感は後ろに退き、低く立ち込めた曇天が気怠い寂しさを物語る。バンドも聞き手も誰もが歳を重ね、青春のかがやきが確かに翳りつつある。「さぁ永遠よ 寂しいニュースが届くより早く! 通り過ぎていくひかりを掴まえて」何度も紡がれる<永遠>というフレーズが、生きることの儚さを響かせる。それでも、人は生きなければならない。胸が詰まる冬の寂しさが今日も夏を待つ。

今週(1/13-1/19)

今週はなんと言っても芥川賞直木賞発表という一大イベントがあった。詳細は別の記事に譲るが、今回初めて芥川賞候補作全5点を読んだ上で発表日を迎えられたので、今まででいちばん思い入れのある回となった。発表当日には、下北沢本屋B&Bにて開催された「ニコ生with本屋B&B ~第162回芥川賞直木賞受賞記者会見パブリックビューイング~」に参加するなど、芥川賞への熱は最高潮に達しているのだが、周りで話せる人がほとんどいないので寂しい。さて、第162回芥川龍之介賞は古川真人「背高泡立草」が受賞。乗代雄介「最高の任務」を激推ししていた身としては残念ではあるが、受賞会見のぐだぐた加減ですっかり古川ファンになってしまった。偏見だが、文学という存在がなければ生きていけなかったタイプの人間だと感じた。最高でしょう。直木賞受賞者川越宗一氏のパーフェクトな質問対応と比較するとなおのこと面白い。よく、「作家先生は話も上手いですね」みたいに話をする人がいるが、そんな言説はくそである。話し言葉という現実の世界で上手くやれない人間のためにこそ文学はあって欲しいと思う。もちろん、スピーチの上手い作家がダメだという話ではない。川越氏の会見からも、文学に対する真摯な姿勢を感じることができた。特にお気に入りは次の部分だ

物語に都合のいい人生を歩んでいる人は誰もいないなと思ったんですね。やっぱり物語に出てくるキャラクターであれば、ある程度、確固たる信念があったりとか、矛盾のない行動というのが必要なんですけれども、実際に生きている人ってやっぱり全然そんなことないんですね。

 

 

半年くらい前から視聴している「みのミュージック」という音楽系YouTubeチャンネルで星野源が特集されていた。彼の功績は、クオリティとポップスを両立させた点にあるという指摘は面白かった。つまり、『YELLOW DANCER』以降(シングルで言えば『SUN』以降)のブラックミュージック的なJPOP曲群が、日本の音楽リスナーたちをある意味啓蒙する役割を果たしたということである。そういえばブームの際は小沢健二と比較されていたような。しかし、自分にとって星野源とは、ブラックミュージックではなく、フォーキーな四畳半ロックだ。1stアルバム『ばかのうた』をどれだけ聴きあさったことか。質素だがたしかに実感する「生活」の情念の結晶に魅せられた人間はみな、『恋』で大ブレイクした後の彼に対する複雑な気持ちを抱えたはずだ。売れちまって音楽性が代っちまったじゃねえか。でも、音楽自体は悪くないから…くそ。

 

 

 

「しもふりチューブ」最新回は、なんとあの『ドンキーコング64』を遊ぶ企画である。神回だ。自分にとって、人生でいちばん思い入れのあるゲームといっても過言ではない。せいやの思い出語りが全て納得するものであり、そしてこのゲームについて全く知らない粗品に、熱弁がほとんど伝わっていない点も面白いのだ。ふたりの対戦動画を見てるだけで楽しくて仕方ない。しかし、レア社のゲームは独特の暗さがあって子供心には怖さも感じた。大人になった今だからこそやり直してみたい。

 

 

 

【受賞作予想】第162回芥川龍之介賞

今年も芥川賞の季節がやって来た。半年に一回だけど。候補作全部読むぞと毎回意気込みながら成し遂げられていなかった。発表までに単行本で出揃わないことが多く、全ての作品に目を通すためには文芸誌のバックナンバーを漁らないといけないなど、意外とハードルが多い。とは言ってもやる気と時間とお金をやりくりすればなんてことはないのだが、その三者を自己内部で揃って醸成させることがなかなか難儀であるのは理解してほしい。

しかし今回はついに、受賞作発表前に候補作全部平らげることに成功した。なぜ今回は成し遂げられたかというと、M-1グランプリで個人的に優勝者予想を立てていたのだがこれが思いの外楽しかったため、すっかり「予想すること」への醍醐味に味をしめた次第である。もちろん、今回の予想が大外れに終わり恥をかく可能性もあるのだが、全作読破には少なからぬ時間と労力(掲載誌を探しに遠方の図書館に遠征したり)をかけてきたので発表したい。それでは、一作ごとに論評を提示しよう(順番は読了順)。

 

千葉 雅也「デッドライン」

哲学者として名を馳せる千葉雅也の文壇デビュー作。修士課程に身を置くゲイの青年が主人公。夜な夜な映画制作に携わったり、ハッテン場を彷徨う行きずりな日々を過ごす「回遊魚」的な主人公に、修士論文提出という唯一具体的な終わりが目の前に迫る。モラトリアムとデッドラインの狭間で高まる緊張を、哲学的な問いかけを挿話として取り込みながら描く作品となっており、哲学の部分に関しては流石に興味深いのであるが、純粋な物語としての強度には迫力不足を感じた。

デッドライン

デッドライン

  • 作者:千葉 雅也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: 単行本
 

 

髙尾 長良「音に聞く」

2012年に弱冠二十歳で新潮新人賞を受賞し、本作は三度目の芥川賞候補作である。翻訳家である姉の有智子は、作曲家として天賦の才能を認められている妹の真名と共に、行き別れた父を訪ねてウィーンへ。有智子は様々な人々と話を重ねる中で、「言葉か、音か」という命題を探究していくことになる。かなり格調の高い文章で物語が紡がれており、作品の重厚さという意味では一番かもしれない。しかし、これは読み手のレベルの問題かもしれないのであるが、自分には少し読みにくいなと感じた。

音に聞く

音に聞く

 

 

古川 真人「背高泡立草」

四度目の芥川賞ノミネートであり、いわゆる「吉川サーガ」の一。島に住む親戚の納屋の草刈りに駆り出される主人公の奈美ほか親族の話がメインストーリーであるのだが、草刈りの最中に表出するものや記憶を頼りとして、合間に島に関する様々な挿話が挟まる。要するに、島という「場所」に蔦のやうに絡まった「記憶」を紐解いていく物語である。メタファーに富んだ構成となっており文学としての完成度は高い。また、自分はそこまで読み取れなかったのであるが、これは奈美が島という象徴としての「母」に合一する物語だという指摘も拝見した。様々な角度から読むことができる良作である。

背高泡立草

背高泡立草

 

 

木村 友祐「幼な子の聖戦」

候補作の中で最も読みやすく、同時に一番の問題作かと思われる。村の選挙問題に巻き込まれる中年男性の話であり、世の中を舐め腐ったような一人称「俺」の語り口は、44歳にもなっても社会的に未成熟な人間=「幼な子」を象徴している。芥川賞候補作としては文章が非常に軽いように映るが、これは既存の固定観念への挑戦という意味で好意的に受け取った。ただし、強引な展開も多く、また政治的な匂いが強すぎるきらいがある。話自体は面白いと思うが、完成度という面でどうなのだろうか。

幼な子の聖戦

幼な子の聖戦

 


乗代 雄介「最高の任務」

本作のみは単行本を購入。亡くなった叔母との記憶を辿る物語。小学生の時分に叔母の影響で誰にも見せることのない日記を書き始めた「私」であるが、叔母との思い出を追体験する中で、この日記という行為は誰のために、何のために行ってきたのかという問いを深めていく。「最高の任務」とは何なのか、様々な問いが一点に凝縮して爆発するラストは圧巻。とにかくこの物語が素晴らしいのは、「語られなかったこと」「書かれなかったこと」に対する眼差しの優しさである。岩宿遺跡を発掘した相澤忠弘の挿話も象徴的であるが、死者の存在を掘り起こすこと、およびその行為が行為者自体をどの地に連れて行ってくれるのか考えながら読んでいくと心に残る箇所がこれでもかと発掘される。何度も読み直したくなるような、自信を持って人に勧められる作品だ。

最高の任務

最高の任務

 

 

まとめ

個人的な好みとしては「最高の任務」が圧倒的。文学というものの存在意義を非常に感じさせてくれる作品であった。ただ、トリッキーな構造ではあるためそこにケチがつく可能性はある。ネットを見ていると「背高泡立草」の下馬表が高いようで、確かにウェルメイドな作品ゆえに受賞の可能性は大いにある。しかし、これを本命として推すのはM-1チャンピオンに和牛を推すようなものであまり面白くない。よって、本ブログでは「最高の任務」を芥川賞最有力として推したい。

「音に聞く」は、自分には理解できない部分も多かったが拡張高さが評価されるかもしれない。ただ、近年は「むらさきのスカートの女」「1R1分34秒」と読みやすい作品が選出される傾向にありその点が不利だろう。「デッドライン」は哲学と物語の融合が不十分であった点、「幼な子の聖戦」は全体的に完成度不足である点が足を引っ張るのではないだろうか。

なお、今回の記事を上梓するにあたっては、下記YouTubeチャンネルを参考にさせて頂いた。とても分かりやすく作品を解説しているため是非ご覧あれ。

https://www.youtube.com/channel/UCutvzRcGtbBNhtGvGihHLjA

村田沙耶香『変半身』

 

変半身(かわりみ) (単行本)

変半身(かわりみ) (単行本)

 

二作収録。人間の内に潜むどろどろとした何かが共通のテーマだろう。まずは表題作。信仰とは何か。身体はただの入れ物なのか。文化や伝統を相対化した先に残るのは何であろうか。問いが無限に続く。人間とは何か。「満潮」では、潮というより即物的な対象がモチーフになる。共に潮吹きへの願望を抱えた夫婦の話。卑猥な話に映るかもしれないが、夜明けの海で遭遇する老婆たちの描写と、最後風呂場での夫の顛末がとにかく美しい。それにしても、村田沙耶香の世界では、どんな狂気にも必ず理解者が現れる。その点はただただ羨ましい。

ここしばらく(1/1〜8)

 

さくらももこ 『ちびまる子ちゃん』を旅する (38) (別冊太陽 太陽の地図帖 38)

さくらももこ 『ちびまる子ちゃん』を旅する (38) (別冊太陽 太陽の地図帖 38)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/12/24
  • メディア: ムック
 

年始は何をしていたのかよく覚えていない。いつの間にか過ぎ去っていきやがった。悲しい。休日最終日に購入した別冊太陽の『ちびまる子ちゃん』特集を貪るように読んだ記憶だけが残った。表紙がもう素晴らしか。一冊まるまるまる子。本来ならすっかり忘れ去られてしまうような70年代あのころカルチャーをポップに昇華させていたんだなと気付かされる。あのころ。さくらももこにとっての70年代は自分にとってのゼロ年代だ。そういえば、ゼロ年代を回顧する取り組みに殆ど出会ったことがない。アナログテレビのような不鮮明度こそこのディケイドの特徴だと思う。今度さくらももこエッセイの猿真似をしてみようと思った。

『映像研には手を出すな!』は久しぶりにビビッとはまるアニメだ。小気味の良い台詞回しが生み出す独特のテンポに乗っかりながら、何にもならず浪費される青春の日々。『四畳半神話大系』で魅せた湯浅監督の真骨頂が見事に再現されている。想像力が現実に染み出していく様が堪らない。「まったくこの無駄なエネルギー、何かに活用できないものですかね」という台詞が最高だ。chelmicoの主題歌もいいよね。そういえば去年の夏は鈴木真海子がマイブームだった。ということで『contact』を聴き直したらヘビーローテーション。夏だよね。やっぱり夏が好きだ。

 

小説では、飛浩隆『自生の夢』にガツンとやられた。内面の感覚や言葉が概念として立ち現れる世界の話。これまでSFはあまり読んでこなかったが、損してたよ。これから大森望を目指します。

自生の夢 (河出文庫)

自生の夢 (河出文庫)

 

 

 

美空ひばりAI騒動に思うこと

NHK紅白歌合戦にて披露された「美空ひばりAI」が炎上しているようだ。騒動を簡単に説明すると、当時の音源などを手掛かりにAI等最新技術によって蘇らせた美空ひばりの仮想実体に新曲を歌わせたら、「不気味だ」「倫理に反している」「何か生命に対する侮辱を感じます」等々の意見が噴出したという感じ。恐らく、ただ単に美空ひばりAIに歌唱させたのであればこれほど大きな問題にならなかったと考えられる。問題は完全創作の語りかけを曲内に挿入してしまったことにあるのではないだろうか。

お久しぶりです。

あなたのことをずっと見ていましたよ。

頑張りましたね。

さあ私の分まで まだまだ、頑張って

歌唱という行為は(シンガーソングライターでない限り)作詞家の言葉を代弁しているという認識が広く共有されているように思える。あくまでも演出のかかったパフォーマンスであり、行為者の内面に必ずしも接続されていないと判断されれやすい。故に、AIが歌ったとしても行為者であるAIに人格を感じることはないだろう。一方で、語りかけは会話という日常的な言語行為に近接しており、一見すると純粋な自由意志に基づく行いに映るだろう。よって、語りかけの行為者には人格の影がちらつく。美空ひばりという外部要素の再現自体は問題ではない。あるはずもない内面を想起させ、外部から都合の良いように人格を代入させている点に人々は憤怒する。つまり内面の傀儡に倫理的問題を見出しているようだ。

今回の問題を振り返るに、プロジェクトのプロデューサーに秋元康が抜擢されている点が非常に示唆的である。というよりも、様々なアイドル=偶像たちを演出してきた秋元康だからこそ、このような人格の代入行為に躊躇なく踏み切れたとも言えるかもしれない。演出という行い自体は否定されるべきものではない。しかし、それがなされていることを示唆したうえでの演出でなければ詐欺となんら変わらない。今回のプロジェクトでは、あたかも美空ひばりの意志で語りかけがなされているような演出がなされていたことが倫理的に問題であったのだ。虚構の塊に今度は我々の人格が蹂躙されないよう注意する必要がある。