魯迅『故郷』

魯迅『故郷』を読んだ。

阿Q正伝 (角川文庫)

阿Q正伝 (角川文庫)

題名だけみると郷愁の想いをテーマにした物語に思えるが、この作品で描かれる「故郷」は、単に「あのころはよかった」という文脈で語られる「故郷」のことではない。「あのころ」は過去に消え去り、残ったのは「変わってしまった故郷」と「私」であった。

私は今度、本当は故郷に別れるために帰ってきたのである。
 

生家を明け渡す母を手伝うために帰還した故郷で「私」が再開したのは、思い出の中にある美しき故郷ではなく、落ちぶれた隣人であり、家を捨てることとなった母であり、そして変わり果ててしまったかつての親友であった。

彼は突立ったままである。顔にはうれしさとかなしみの気持ちをうかべて、唇をうごかすだけで、かえって何も声が出ない。彼の態度はやがてつつましやかになって、ハッキリといった、
「旦那様!・・・・・」
私は寒気のするような気持になった。私はわれわれの間はもう何か悲しむべき厚い壁によって隔てられていることを知った。私は何もいえなかった。

「私」の記憶の中で輝く、親友とのかつての友情は、身分という現実にからめ取られてしまった。故郷を発つとき、「私」は名残惜しさを感じなかった。美しかった故郷はもうそこにはない。希望は故郷にも過去にもなく、自分の手で作り上げていくものだと悟り、「私」は故郷を後にする。

「叔父さん、私たちはいつ帰ってくるの?」
「帰ってくる?まだ行きもしないのにどうして帰ってくることをお前は考えるのだ。」
   

私は思った、希望というものはもともと、いわゆる有ともいえないし、いわゆる無ともいえないのだと。それはちょうど地上の路のようなものだ、実際には地上にはもともと、路と言うものはなかったのを、歩く人が多くなって、そこが路になったのである。
   


少しわき道にそれるが、かつて大塚英志は『仮想現実批評』において、ノスタルジーを通過儀礼にたとえた。過渡期の心身ともに不安定な時期に、自己の経験を振り返ることで自己連続性を保証するものとしてノスタルジーをとらえる。そして、前近代において人生の転機に必要となっていたイニシエーション(通過儀礼)との相似性をそれに見出したのだ。過去を故郷と読み替えれば、「故郷」への「私」の凱旋と失望は、近代という激動の時代にいままでの価値観や環境を壊された人々の物語であり、その意味で人々の近代への「進歩」を促す通過儀礼的な作品として見ることも可能であろう。実際に近代化論者であった作者もそのようなテーマを意図していたのかもしれない。

仮想現実批評―消費社会は終わらない (ノマド叢書)

仮想現実批評―消費社会は終わらない (ノマド叢書)

ただ、そんな小難しい話を持ち出さなくても、この物語は「変わってしまったなにか」に寄せる儚さと憧れの、見事な表現にこそ醍醐味があるのではないかと思う。

私の覚えている故郷は全くこのようなものではなかった。私の故郷はもっとよかった。だが私はその美しいところを思い起こし、そのよいところをいい出そうとすると、どうもハッキリした影像はつかめず、言葉はないのである。何となくそんなところだという気もする。そこで私は解釈した、故郷とは元来こんなものだ、
    

結局思い出なんて自分の都合に合わせたものでしかない。「あのころはよかった」なんてみんな言い出すわけだが、実際にタイムスリップしてみても、どう思うかわからないだろう。でもたしかに、現実が変わってしまったから、「あのころ」にはもう戻れない。戻れないものに、人は美を覚える。思い出は、変わってしまうからこそ、美しいものなのかもしれない。そんなことを考えてたら、好きな曲の一節を思い出した。 

変っていく空の色と
消えていく大好きな匂い
だけどこんな日にはせめて
僕のまわりで息返し
  
 「晴れの日はプカプカプー」