石井遊佳「百年泥」
新潮新人賞「百年泥」を読んだ。
インドのチェンナイで日本語教師を務める女性の物語。作中、特に何かが起きるわけではなく、下手をすると異国の地で暮らすグローバルなワタシかっこいいでしょ的な似非インテリ臭をまき散らすだけの自己満足体験記に終始してしまいそうな題材である。それでも、その辺と一線を画す要因は、排気ガスですすけた大空を滑空する翼の生えた通勤者や、泥の下からひょこり現われる人間たちなど、随所にちりばめられたマジックリアリズム的想像力の展開が、一つにあげられるだろう。まさに泥を何百年も煮詰めたような南インドの怪しい都市に迷い込んだかのような混沌を掻き立てる。そして、なによりもこの作品を非凡なものにするのが、「話されなかったことば」に対するまなざしであろう。「愛想がない」と言われる主人公自身はもちろん、記憶の中で蘇る母親やクラスメイトも人魚のように無口であり、一見饒舌であるインド人生徒達も習いたての日本語の中で話すことのできる言葉は限られる。そんな無口な登場人物たちが語ることのできなかった思いに、作者はマジックリアリズム的手法で言葉を与える。途中、母と過ごした時間を回想するシーンでの一節。
私にとってはるかにだいじなのは話されなかったことばであり、あったかもしれないことばの方だ。
日常の些細な風景や出来事に触れたときのその刹那的感情を、ぼくらはどれだけ言葉にできているのだろうか。よっぽど口上手な人間でなければ、全ての感情を話し言葉で誰かに届けることはできないはずだ。少なくとも自分は、巧みな話術でクラスの中心に陣取るような人間ではなかった。それでも、言葉にならずにどんどんと堆積していく感情たちを大事にしたいという思いから文字に書き残すことこそ「文学」の役割であろう。吉本ばななも『キッチン』のあとがきでこの様に語っている。
そしてさまざまに微妙な感じ方を通して、この世の美しさをただただ描きとめていきたい、いつでも私のテーマはそれだけだ。
愛する人たちともいつまで一緒にいられるわけではないし、どんなすばらしいことも過ぎ去ってしまう。どんな深い悲しみも、時間がたつとおじようにはかなしくない。そういうことの美しさをぐっと字に焼きつけたい。
文学は、口述社会で挫折した敗者たちのカルチャーだ*1。三島由紀夫「金閣寺」が吃りによって現実に疎外された主人公を救済したように、文学としての本作が成し遂げたのは、日常を彷徨うことばの亡霊たちに対するささやかな供養であった。