中川龍太郎『わたしは光をにぎっている』

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地元立石が舞台ということで気になっていた作品『わたしは光をにぎっている』を観に新宿武蔵野館へ。正直内容にはそれほど期待してはいなかったのだけれど、とても美しい映画であった。登場人物が喋りすぎない。そこがとにかく良い。

この作品にとって「場所」が一つの重要なテーマとなってる。大きな話でいえば立石という街の再開発によって「場所」を失う住民たちの物語であり、またそれとは違った次元で彼らは自分たちの小さな「場所」に拘り続ける。ラーメン屋、映画館、飲み屋、銭湯。そして注目してほしいのが、彼らのほとんどが余所者だという点である。主人公の澪、映画監督志望の銀次、ラーメン屋の稔仁、エチオピア料理屋に集まったアフリカンたち。本来なら出会うことのなかった人々が集まり一つの記憶を作り上げていく。そのような「場所」が破壊の危機に迫った時、人は何を思いどうするのか。それこそがこの映画の描く美しさである。

また、銭湯という舞台装置の良さを改めて感じた。男湯と女湯という不完全に仕切られた二つの空間。澪にとって、女湯側は自己、男湯は他者を象徴する。物語序盤、口下手な澪が唯一大声を出すのが惚けたお爺さんが男湯から女湯の脱衣室を覗く場面で、これは他人から自己の領域に踏み込まれることへの抵抗感をよく顕している。これが終盤になると、仕切り越しに京介と会話したり、最後には男湯から聞こえる見えない嗚咽に静かに聞き入る。あるようでない、ないようである人間同士の心の距離感を表現するのに、銭湯ほど適した舞台もなかなかない。

そして考察として欠かせないのは、「光」というものについて。光とは何か、果たしてわたしは光を掴めているのか、人々はその答えを探し求める。アンサーとなるのは銭湯の水中で輝く陽だまりに手を伸ばすシーン。光は形のないものだ。それでも、水を通してそれを掴んでいるという感覚は掴める。その感覚を信じることでしか人は何かを確かめられない。水中の光を掴むことは、澪にとって大人になるための通過儀礼のようなものだろう。答えは分からないけれどもしゃんと生きること。そんな当たり前の、説教臭くなってしまうようなメッセージを、少ない台詞数と美しい情景描写で示せたことにこの映画の価値はある。

主題歌を歌うカネコアヤノにもすっかりハマってしまった。ありきたりな日々だけど、特別な何かを遠くに期待している、そんな気取らない生活の一部を切り取った音楽。「隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね」「追いかけたバスが 待っていてくれた かっこいいまま、ここでさようなら」こんな言葉が世界を埋め尽くして欲しい。