踊る理由が街にあふれて

 

片想い「踊る理由」のライブ映像をYouTubeで見ていたら、こんなコメントを見つけた。

 

ぞくぞくした。震えた。自分は何で泣いてるんだろう

 

 投稿は1週間前、いいねも返信も一つもついていない。コメント主がどのような思いでこの言葉を残したのかは分からないが、このとき彼(女)が何か切羽詰まる感情に襲われていたことは容易に想像できる。彼(女)が吐き出そうとしたのは、懐かしい青春の日々に対する絶望にも似た望郷の想いかもしれないし、人生の輝きを垣間見てしまったときに胸の底で巻き起こる幸福な焦燥感かもしれない。とにかく、この「ぞくぞくした。震えた。自分は何で泣いてるんだろう 」という言葉は、彼(女)が、もはや自分のうちにはしまい込んでおくことのできなくなった大切な言葉であるはずだ。

そんな大切な言葉も、今のところだれにも見向き去れずに、荒漠としたサイバー空間にほっとかれたままである。この地に放擲されてから一週間しかたってはいないとはいえ、このコメントが何千いいねを集めたりして日の目を浴びる可能性はおそらくゼロである。誰にも見向きもされずに残骸として広大な荒地に堆積していく。それが現代社会の不条理というもので、いやそれは些か大袈裟かもしれないが、私はそんな誰にも見向きもされない言葉たちを救いたいと思った。

すると、画面の中でいくつもの言葉が輝き始めたではないか。「だいすきになった!!!今日出会った!」無数の重厚な声たちが、画面から飛び出してきて僕の部屋になだれ込んできた。「この時間を共有できた人たちがうらやましい。幸せって、きっと人生の中のこういう一瞬のことを言うのね。」画面を押さえつけても次々と出てくる。「本当にいいなー。奇跡みたいな気分になる。 」果たして僕にはこのすべての声たちをひとしく大切にすることができるのだろうか。「これは 音楽にしかできない 楽しい。その喜びよ永遠に…」わからない。「毎週つい再生しにきちゃう。すてき!」あふれてくる言葉は、この部屋をいっぱいに満たすと、少し開いた窓の隙間からするりと抜け出していく。「もうオマイラに任せたぜ!たのしいよ!!」言葉は東京の街を覆い、気が付けば七色のオーロラが空を駆けていた。人々は踊り、そして夜はふけていった。