しんにょう(あるいはしんにゅう)

幼いころの記憶に残るしんにょう(あるいはしんにゅう)は辶であったけれど、いまモニターに映し出される「辻」のしんにょう(あるいはしんにゅう)は何度目を凝らしても辶だった。ふたつも点が乗っている。おかしな形に困惑しながら、しかしこれはつい今しがた自分がキーボードで打ち込んだことにより生み出した文字であるという事実に直面する。PCが表示する文字に誤りはないはずであり、そうすると、先ほどまで私の記憶だと思っていたものが私の記憶ではなかったのかもしれない。いや、騙されるな。私には確かな記憶がある。

小学生の僕は、かび臭い教室の片隅で、「道」という文字を何度も書き写している。その文字はいささか見るに堪えないほどの汚さだが、何とか「道」であると認識できる程度の形は残している。30回同じ字を書かないといけないので、途中で僕はずるをし始めるわけだが、まあそれはいい。とにかく、ほらみたことか、辶がやはり正しいのだ。しかしなぜこんなたわいもない場面を記憶しているのだろうと不思議に思っていると、おいと呼ぶ声がしたので頭を上げる。そこに立っている少年は、僕がずるをしているのを見抜いたようだった。僕は瞬時にノートを覆うようにして、なに、と答えた。

「お前、をぜんぶ先に書いて、その後で首を書こうとしているだろ」

「してないよ」

実際には彼の言う通りで、僕のノートには一面の辶が書き連ねられていた。この方が効率的だと思ってやってしまったわけだが、僕は正直に答えられなかった。いま思い返せば、別にそのくらいのことがばれてもなんでもないはずだったが、当時の僕にはそのズルがとても大きな罪であるように思えてならなかったのだ。

「いや、俺は見たよ。先生にいっちゃおう」

僕は狼狽した。そして、必ずこいつを葬ってやると強い殺意を覚えるやいなや、辶で埋め尽くされたページを彼に見せつけてやった。すると彼は、辶辶辶辶辶辶辶辶辶辶辶辶が辶辶辶辶辶とつらなる辶辶辶辶の辶でゲシュタルト崩壊を起こして別世界に飛んで行った。ざまあみろと漢字ノートを開きなおして「道」を書き始めると、辶が崖に立つ一人の人間を表しているように思えてくる。断崖の上で立ち尽くす僕の眼下には、深い森の蒼がどこまでも続いている。風が木の葉を揺らしすざわざわと野生動物たちの鳴き声が混合して不気味な気分だ。その森の中から、先ほど吹き飛んだ少年の声がする。僕は彼が哀れになったので、おーいと声を出して居場所を伝えた。すると「おーい」の声は実態となって彼の方へと飛んでいき、彼を乗せて崖の上へと戻ってきた。

「びっくりしたじゃないか」

「お前が悪いんだぞ」助けてやったのに不遜な態度をとる彼に僕は苛ついていた。

「しかもお前、この辶が間違ってるぞ」

教室に戻って彼がノートの一字を指して言う。確かにそれは辶ではなく辶となっていて点が一つ多い。これには僕も反省の色を示すしかなかった。

「教えてくれてありがとう。このまま提出していたら大変なことになってた」

素直に感謝の言葉を伝えて彼を見ると、彼はそこにはおらず、ただ辶の白いオブジェクトが屹立していた。文字が言葉をもって何かを訴えることはできないが、僕には、辶が哀愁の気持ちを抱いていることが分かった。僕には彼のさみしさを理解することができたから、彼のために涙を流すことにした。すると、目の前に据えられた辶が強い光を放って、空に浮いたかと思うと、教室の天井を突き破って空高く飛び立っていった。

この時以来、僕が辶の形を意識したことはなかった。