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最近読んだ本や聞いている音楽について

椎名誠パタゴニア―あるいは風とタンポポの物語り』

パタゴニア―あるいは風とタンポポの物語り (集英社文庫)

パタゴニア―あるいは風とタンポポの物語り (集英社文庫)

二年前の夏休み、中国上海を旅行した。旅行自体はとても楽しいものであったが、初めてのバックパック旅行であり、不慣れなことも多く、いささか不安な気持ちを終始抱えていた。その折、世界中からバックパッカーが集まる安宿に泊まった。ビルの上層階の狭いスペースを改築したものであり、設備はお世辞にもきれいとは言えなかったが、屋上から上海の喧騒を眺めることができた。エントランスには世界の旅行記がそろった本棚があり、自由に手に取ることができた。その中に、この本はあった。おそらく日本から来たバックパッカーが旅行中に読み終わり、旅の邪魔になって置いていったのであろう。なぜ上海にパタゴニアの本を持ち込んだのかは謎であったが、とりあえず暇であったのでその本を読んでみた。滞在期間中に読破することはできなかったが、遠く南米を旅するシーナの葛藤に、自分の旅先の不安を重ねていたのを今でも覚えている。
帰国後、椎名誠という人物の本を読み漁った。『白い手』とか『トロッコ海岸』といった物語のモノクロの感触も面白かったが、彼の真骨頂はやはり旅行記である。『インドでわしも考えた』『イスタンブールなまず釣り。』『シベリア追跡』...。古本屋で見つけるたびに、数々の優れた旅行記を読んできたけれども、しかし『パタゴニア』だけは出会う機会がなかった。もちろんamazonで頼めばすぐに読めたのかもしれないが、「本屋で会いたい」といういらないこだわりからこれを固辞。しかしとうとう先日、新宿のブックオフで奇跡の再開を果たしたのだ(大げさ)。
久々に読む。相変わらず優れた旅行記であり、すらすらと読める文才もさすがである。しかし、である。この本は単なる旅行記ではない。旅それ自体ではなく、サブタイトル『あるいは風とタンポポの物語り』こそがテーマである、ということに気がついたのは、前回読んだ時からの成長であろうか...。自分のバックパック旅行の原点ともいえる一冊。

平出隆『ベースボールの詩学

ベースボールの詩学 (講談社学術文庫)

ベースボールの詩学 (講談社学術文庫)

野球が好きである。脳内妄想リーグは今年で9年目を迎えた。アイアムクレイジーあばうとベースボールである。そんな自分が古本屋で560円という(自分にとっては)大枚はたいて購入した一冊。

地球の形を見ていて、ふとボールを連想してしまう者は、少なくないだろう。
だが、ボールを手にしていて、ボールで遊びながらの地球一周旅行を思いついたりする者は、そう滅多にいないのではあるまいか。

19世紀アメリカの野球選手、スポルティング一行の世界遠征(といっても、日本には立ち寄っていないのであるが)で幕を開ける。いやそんな時分からベースボールって世界規模であったんかいというのが率直な感想であり、はじめはフィクション小説かと疑ったくらいだ。しかもこの一行、途中エジプトに立ち寄ってスフィンクスの前でベースボールを始める始末。野球狂の自分もさすがにドン引きの荒唐無稽ぶり。当時の写真の開設には「現地の人々が、呆れてこれを眺めている。」とある。残念なのは日本に立ち寄らなかったこと。当時、明治22年。正岡子規が「ノボール」と戯れていた時期である。スポルティング一行が仮に極東の島国を訪れていたら、今の「野球」はもう少し違うものになっていたかもしれない。
ベースボールの起源には諸説ある。「1839年にアメリカ人ダブルデイがクーパーズタウンで考案した」という説が一度定説となったが、これはねつ造であったことが判明する。他にもイギリスの球技ラウンダーズや植民地時代のワン・オールド・キャットというゲームに由来するという説があったが、本書ではその起源をなんと古代エジプトに求める説も紹介している。古代エジプトの豊穣の祭式にバットとボールの起源があったというのだ。大航海時代コロンブスキューバを「発見」した際に、現地人が果実を投げたり打ったりして遊んでいたことが知られており、この「バトス」と呼ばれるスポーツこそ、野球の起源なのだということを前に聞いたことがある。その意味で、ベースボールというスポーツは意外と普遍的な行為なのかもしれないなと感じたりもした。

ヘミングウェイ老人と海

老人と海 (新潮文庫)

老人と海 (新潮文庫)

キューバという国に興味があった。常夏の海、街中を駆け抜けるクラシックカー社会主義の独特な雰囲気。バックパッカーにとって、そのカリブ海の島国は、異世界の象徴としての憧れの地であった。それゆえこの人類的な古典(とされるもの)を読んでみたのは、ヘミングウェイという稀代の作家に興味があったのではなく、単にその舞台がキューバであったからというだけであった。150円で売られていた、というけっちい理由もなくはないが...
正直に言って、物語自体はそこまで面白いものではない。カリブ海に独り浮かぶ老人と魚との格闘劇が延々とつづられている、そんな小説である。しかし、読み終わっていくばくも時間が流れても、記憶の中にそこで描かれた格闘のイメージを思い出せる。その点はさすが教科書に載るだけの古典である。そして、訳者福田恒存の解説も読みごたえがあった。彼によると、ヨーロッパは歴史という時間に支えられており、ヨーロッパ文学において、人々は過去という時間に縛られた関係性と、近代の個人主義のはざまで葛藤する。そこにヨーロッパ近代文学の魅力がある。それに対して「歴史を持たない」アメリカにおいては、無限(と思われた)の空間というものが時間の代わりをなすがゆえに、ヨーロッパ文学のような「個」の葛藤を表現できない。そこでヘミングウェイは「個」の葛藤という魅力の欠如をストイシズムによって乗り越えようとした。すなわち、ヨーロッパ的な歴史・人間関係にではなく、個が敵に打ち勝つというギリシア的カタルシスに価値観を置いている。本作においては老人の帰還がそれにあたるのであろう。文学の解説というのは、いかにもこじ付け的なものが多く、あまりなれたものではなかったが、この解説は例外的にしかりと読みごたえがあった。
さて、肝心のキューバについてであるが、老人と少年の会話などで1950年代のキューバでの野球人気が鮮明に描かれていた。現在でも「アマチュア最強」とさけばれる野球大国キューバの過去が垣間見れたのは面白い発見であった。ぜひともキューバに行ったら、現地の人々と野球談議を交わしてみたい(その前にスペイン語を覚えなければ...)

スピッツ『名前をつけてやる』

名前をつけてやる

名前をつけてやる

物心ついた時からスピッツを聞いていた。草野マサムネに育てられたといっても過言ではない。好きな音楽は?と聞かれたら迷いなく「スピッツ」と答え、「ああ、チェリーいいよね(棒)。(そんなJPOPなんてどうでもいいけど、)ワンオクとか聞かないの?」みたいな反応を何度もされてきた。それでもスピッツを聞き続けた。そして今、このセカンドアルバムが再びマイブームである。
なんともメルヘンチックであり、そしてまた文学的だ。星新一的な、日常に忍び込んだSF作品。たとえば「日曜日」では「晴れた空だ日曜日」といういかにも日常的なフレーズから歌い出しで始まるが、すぐに「戦車はふたりをのせて 川をのぼり峠を経て 幻の森へ行く」と続く。「鈴虫を飼う」といういかにも自然主義的タイトルの曲も「乗り換えする駅で汚れた便器に腰かがめ そいつが言うように 見つけた穴から抜け出して」。「ミーコとギター」でも「ミーコの彼はミーコの彼じゃない 誰も知らない」だって。なんだか頭がふわふわしてくる。こりゃあ「マサムネ、ヤクやってんじゃないの」と疑われてもしょうがないなって感じ。それでも曲は全部ポップスとして成り立っているから不思議だ。そして草野マサムネの文才が最も爆発しているのが「プール」である。

独りを忘れた世界に 水しぶき跳ね上げて
バタ足 大きな姿が泳ぎだす

どうでもいいんだけれども、ラストトラックの「魔女旅に出る」のラスボス感は尋常じゃない。YUKI『WAVE』における「歓びの種」と同じく。わかる人、いるでしょうか?

松田聖子『Seiko・plaza』

Seiko・plaza

Seiko・plaza

アルバム、というよりは「赤いスイートピー」と「SWEET MEMORIES」ばかり聞いていたけれども。この二曲の名曲度合はすさまじい。説明の必要はないかもしれないが両曲とも作詞は松本隆*1。その歌詞はもちろん素晴らしいんだけれども、それを見事に歌いこなす松田聖子という歌い手もまた一流でである。特に

このまま帰れない 帰れない
 
赤いスイートピー

の「まま」の歌い方が好きだ。ちなみに当時の松田聖子と今の厚化粧おばさんは別人です。
  
  

*1:この人、草野マサムネとともに「水中メガネ」という名曲も作っている