山田尚子『リズと青い鳥』 互いに素の美しさ

 

どうやら、完璧な美しさに出会ってしまったらしい。

Homecomingsのエンディング目当てだった『リズと青い鳥』という映画にすっかりやられてしまった。京都の高校を舞台に、二人の少女の関係を描いた90分。自分には訪れることのなかった麗しき青春を前にひれ伏す。原作も知らなかったし、アニメ自体ほとんど見てこなかった非オタの自分(外見はオタクという突っ込みは無視します)ですが、一週間で二回観に行きました。人類はこんな素晴らしい物語を作ることができるのだという感動と、もはやこれ以上の物語を見ることはできないだろうという絶望が現在入り混じっておりますが、この特別な感情を多くの人に共感してほしいと思い、少しばかり筆を執ってみます(前半部分はネタバレなしです)。興味を持ったら、ぜひ劇場へ。

あらすじ。同じ吹奏楽部に所属する鎧塚みぞれと傘木希美は、高校最後のコンクールである童話をモチーフとした楽曲を演奏することになる。この「リズと青い鳥」という童話は、一人ぼっちで暮らす少女リズと、彼女の前に現れた青い鳥との別れの話だった。いつまでも希美と一緒にいたいと願うみぞれは、リズと青い鳥に自分たちの姿を重ね合わせながら、いつか来る別れの時の予感におびえ続ける。一方、屈託のない希美にはみぞれの不安は届かない。想いのすれ違いが、二人の関係に徐々に影を落としていく…

 

言葉にならない言葉たち

これは耳で観る映画だ。まずは冒頭の数分間、ひたすら二人が学校を歩くシーンで、ローファーが鳴らすコツンコツンという足音。鍵を回す音。窓を開ける音。服のすれる音。ページをめくる音。水槽のモーター音。演奏中の息遣い。もちろん、吹奏楽が演奏する楽曲の音もそうなのだけれども、普段見落としてしまうようなひとつひとつの音にこそ耳を傾けてほしい。そこには、言葉で表せなかったたくさんの想いが溶け込んでいるはずだ。耳を澄まして、一音一音を大切にしてほしい。決してポップコーンをバリボリ食いながら観てはいけないのである。

そして同時に、「しぐさ」に注目してもらいたい。台詞は少ない。ストレートに感情を吐露する言葉はほとんどない。それを埋め合わすたくさんの「しぐさ」。希美の隣を歩かずに後ろを歩くみぞれの視線。笑おうとするけれど、うまく笑えない希美の表情。髪の毛が触れそうで触れられない二人の距離感。想いは言葉にならず、青春は進んでいく。そんな想いは「しぐさ」に溶け込む。

「互いに素」な二人

序盤で突如現れる"disjoint"のカット。日本語で「互いに素」、公約数を持たない数の関係性。これはみぞれと希美、彼女たちの関係のメタファーだろう。いつも一緒にいる二人だけれども、その関係はなんだかぎこちない。みぞれが振り絞るように発する数少ない言葉も、希美に上手く伝わらない。たとえば、二人で過ごす朝練の時間に「うれしい」と漏らしたみぞれの想いも、希美には「リズと青い鳥」を演奏することが「うれしい」のだと理解されてしまう。また、一見自由気ままに喋っている希美も、大事なことには触れないように気を使っている。お互いがお互いを想い合っているけれども、その想いの形は同じものではない。二人はすれ違っていく。一瞬でも重なりたくて、でも。そんな二人の日々が、美しい光で染められる。

 歌にしておけば 忘れないでおけるだろうか

 エンディングで流れるHomecomings「Songbirds」。これが、この物語の最後のピース。これにて美しさは完成する。ポップに鳴り響くギターの音が、校舎から見おろす校庭、草薫る風が吹き上げる河原の景色、暮れかかる夕日に照らされた通学路、いろんなものを脳裏に描き出し、みぞれと希美の物語の美しさに自分たちの過ぎ去りし日が重なり合う。そして極めつけは、その歌詞にある。すべて英語で歌われるけれども、字幕で語られる日本語訳の美しさは、この映画のすべてを思い出させる。「歌にしておけば 忘れないでおけるだろうか たった今好きになったことを」。今を生きる想いをなかったことにしないために、みぞれも希美も不器用ながらに形にしようとする。その結晶が「リズと青い鳥」という音楽の演奏であり、そしてこの映画そのものなのである。

 

以下、ネタバレ有りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どちらがリズで、どちらが青い鳥か

物語の中で「リズがみぞれで、青い鳥が希美」という関係性に逆転が起きるが、これを象徴的に表しているものがいくつかある。

まずは二人で歩いている時の二人の距離感。繰り返しになるが、学校を二人で歩く冒頭のシーン、みぞれは希美のかなり後ろを歩く。希美はそのことを知ってか、途中早歩きで階段を登り、みぞれから見えなくなったところでひょっこりと上から顔を出して笑いかける。この一連の場面はやはり、希美に憧れ、ずっと一緒にいたいと思いながらも、いつか希美がいなくなってしまうのではという不安を抱える、「リズとしてのみぞれ」の比喩だろう。対して、最後の場面、一緒に帰る約束をした二人。校門で待つ希美に追いついたみぞれは、希美よりも先に門を出る、このささいなワンシーンが重要な意味を持つ。これまで希美の後ろを歩いてきたみぞれが、希美よりも前に出ようという意思をここで観ることができる。もっとも、その後の帰り道は、希美がいつものように前を歩くことになるのだが、二人の距離は冒頭のシーンのようには離れていない。みぞれは希美のすぐ後ろを歩く。「青い鳥としてのみぞれ」の無意識の決心は、不器用な形で歩くという行為に顕れている。

もうひとつ、それは生物学室。リズが動物たちに餌を与えるシーンから連続して、生物学室でフグに餌付けするみぞれが描かれることによって、「リズとしてのみぞれ」がここで示される。その直後、隣の校舎で友人と戯れる希美のフルートが反射する光がみぞれを染めていく。この時、こちら側のみぞれと、あちら側の希美を結ぶその光に、二人は気付いているが、同時にそれがとても小さくて頼りないものだともわかっている。そして、あちら側の希美は、あちら側の友達に呼ばれて、みぞれの視界からいなくなる。そこに、いつか終わりが来ることを知っている、リズと青い鳥の関係が投射される。さらに、最後の練習が終わり、自分がリズであると気づいた希美は、みぞれのテリトリーであった生物学室で泣く。ここでリズと青い鳥は逆転する。

とにかく、この映画は、二人の立場の逆転というテーマを細部の描写にまでこだわって丁寧に表現しているのである。

結局、分かり合えない。でも、

「物語は、ハッピーエンドがいいよ」。そう話す希美の想いとは裏腹に、この物語は純粋なハッピーエンドには終着しない。クライマックスの生物学室でのハグだって、希美の全部が好きだと告白するみぞれに対する希美の答えは「みぞれのオーボエが好き」、ただそれだけ。「みぞれが好き」だとは言わない。だけれども、みぞれはその言葉でオーボエを続けていく、音大でがんばるという目標を見つけることができ、希美は自分の才能の限界に気づいて将来を見据えるという前進に至った。結局二人は「互いに素」だけれど、二人の物語は前進する。

実は「互いに素」は、ひとつだけ同じ約数を共有している。それは「1」。一瞬だけ、少しだけなら、重なることができる。それを象徴するのがラスト。二人が同時に同じセリフを口にする。その瞬間だけは足音も重なって、全てが一緒になる。その後の「ハッピーアイスクリーム」は、希美に伝わらずに、また二人は「互いに素」になるのだけれども、一瞬だけでも二人は重なり合うことができた。それが人生の光なのか。"disjoint"が"joint"になって、物語はハッピーエンドを通り過ぎる。