平野啓一郎「ある男」

文學界2018年6月号

「自分とは誰なのか」という問題に一度は突き当たったことがあるのではないか。今まさにここにいる自分と、一秒前にここにいた自分が同じ人間だとだれが断言できるのだろう。この世界には無数の自分がいて、その時々で違う自分が顔を出すのかもしれない。このように考えてしまえば、自我の確立というものは幻想の彼方に消えていく。そういった自己分離が起こらないように、名前があてがわれる。名前を背負ったものは、その名前が辿った過去も背負うことになる。ここに、名前と過去を与えられた一人の自分というものが存立する。それでは、名前を失った人間はどうなるのだろうか。名前と同時に、その人間の過去まで消えてしまうのか。

この作品で問題になるのは、まさしくそのことである。名前を消し去ることで、これまでの自分をなかったことにしようとする男。他人の名前を語ることで、自分ではない誰かになろうとする男。その男の存在は、過去とか愛とか絆とかそういったものから全く自由になれるのだろうか。何物でもない「ある男」としての存在。それは空虚なものか、あるいは完全なる自由か。