新しいという不気味の快楽 ―鴻池留衣「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」を読んで―

新潮 2018年 09 月号

 

分かりやすいということは心地よい。それは僕らの存在を一見無条件に肯定してくれるから。良いものが悪いものをうち倒すという明快なストーリーに世界の溜飲が下がる。同じ感情を共有するという安楽に包まれて、僕らは自分が世界に生きていることを再度確認する。それが、僕らが物語を求めるひとつの動機であることは否定できない。

しかし、物語にはもうひとつの終着点がある。それはまったく真逆で、つまり全く何を言っているのか分からないという瞬間、その刹那を僕らは首を長くして待ち焦がれる。

新しい何かを前にすると、不気味という感情が溢れ出す。それはたしかに、心の平穏を溶かす危ない何かだ。まるでエイリアン。そんな存在、消え去ってしまえとあなたは願う。慣れ親しんだストーリーに囲まれていたいと。だけれども、それはオモシロいのだろうか。分かりやすさだけが支配する世界なんて。

不気味の向うに行ってみたい。その欲求が、僕らを物語に向かわせる。新しい何かを歌った物語に。

  

ここに鴻池留衣という作家がいる。彼もまた、不気味の彼方側を目指した「変態」なだ。今回新潮に掲載された「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」という物語。そもそもこれは小説なのだろうか。wikipediaの引用(という設定)から始まった「僕」という人物にまつわる文章は、気がついた時には「僕」をめぐる一人称小説へと。文章の構造がいつの間にか変わってしまう。そんなものを読んでも平穏な快楽なんて得られないだろう。だけれども、僕はそこに不気味な快楽を覚えた。それは、何となく新しい。声高に革命を宣言する物語ではない。だけれども、新しさが焦げ臭く薫る。そのにおいに誘われて、多くの人間が彼方に落ちていく。

 

おそらく世界のほとんどが、この小説の存在すら知らずに死んでいく。それは、この小説がすべてに理解されることを拒むから。しかし、彼はすべてに理解されないことも拒んでいる。1億人に1人でも、この不気味な美に脚を掬われる人間がいれば、彼の勝ちだ。そしてそこから、新たな美の感触が世界に生まれる。不気味な美の感触が。