森見登美彦『熱帯』

「重い、真摯なものを避け、斜めに書く姿勢をよしとしている作風が鼻につく」と難癖をつけられてからはや12年。時は満ち、ついにリベンジの時。森見登美彦の新作『熱帯』が満を持して直木賞へと突き進む。
熱帯
君はもう読んだであろうか。この傑作を。

この本を最後まで読んだ人はいない

謎の小説「熱帯」。その存在を知る者は、皆決まって結末まで辿りつけなかったと語る。なぜ人々は読み終えることができないのか。誰が何のために書いたのか。そもそもそれは実在するのか。『熱帯』は、そんな一冊の本の謎を巡るお話だ。
ところで森見登美彦といえば妄想である。『太陽の塔』に始まり『四畳半神話大系』も『有頂天家族』も全て、現実からちょっとずれた非現実の世界を立ち表すことによってある意味マジックリアリズム的な浮遊感を紡ぎ出す。これが登美彦氏の策略である。
そのような妄想が大きな形をとって結晶した作品、それが本作である。妄想が現実を飲み込んでいく。それは、『聖なる怠け者の冒険』『夜行』といった近年の作品でも目指したものの終着点であるとも言える。その意味で、本作はまさに大団円である。

さてさて、本記事冒頭の一文に話を移そうか。これは『夜は短し、歩けよ乙女』に対する直木賞選考委員故渡辺淳一の言葉である。なるほど渡辺氏は、直木賞には「文学的重み」が必要であり、森見作品はそれに達していないと考えたようである。私はそもそも「文学的重み」が氏の作品に欠けているとは全く思わないが*1、確かに、一見すると森見登美彦の物語は酷く軽薄なものに勘違いされがちである。それは氏のこれまでの作品が、セックスや死という重さ、すなわち生きるということに焦点を当ててこなかったからだと考える。
しかし『熱帯』は、そういった批判の一切を完封する。だってこの小説、人が生きるということの意味を描いた実存主義文学だから。
人は語ることでしか自分の存在を確認できない。しかし、その自分の存在はそとそも誰かの語りの中で生かされた存在なのかもしれない。この決定論的諦念を前に人がいかに生きていくか。この小説は、語り続けることを答えとして示してくれた。その正誤は置いておいて、もはやこの小説を軽薄な大衆文学と呼ぶことはできないだろう。
このような「文学的重さ」を氏はついに手に入れた。もはや敵なしである。直木賞は頂いたも同然。そんな迷惑極まりないフラグを立てて、本稿は幕を下ろそう。

*1:特に『太陽の塔』を読んでほしい。残念ながら、表面的なセックスや死をバンバン登場させることで雰囲気だけでも文学を擬態しようとする「文学もどき」で世の中は溢れているのである。ああ、ムカつく。お前らのそのくそつまらん雰囲気だけのインスタ映え見越したような自分語りなんかよりも、冴えない大学生が冴えない生活送るだけの『太陽の塔』の方が100倍ロックで純文学なんじゃボケと私は声だかに叫びたい。