滝口悠生『高架線』

 

高架線

高架線

  • 作者:滝口 悠生
  • 発売日: 2017/09/28
  • メディア: 単行本
 

 どろどろに煮込んだカレーにはたくさんのスパイスや具材が溶け込んでいるかもしれないけれど、出来上がるころになればその一つ一つはもとの形もわからないほどぐちょぐちょになってもう何が何だか分からなかったりする。そりゃあ、じゃがいもやにんじんのようにそこそこ原型をとどめるやつもいるが、たいがいはそんなもの入ってたのという感じで忘れ去られていくものであろう。それでも、その得体のしれないものたちがなければカレーの深みとか風味だとかそういうものは成立しないわけで、よくわからない消えていった何かに思いを馳せながら食べ物をほお張るのもわるくはない。

おもえばわれわれの生活も似たようなもので、いつもより5分早く目が覚めたとか、箪笥にこゆびをぶつけて痛かったとか、「今日暇?」ってLINEにどう返事すべきかしばらく悩んだとか、本当にどうでもいいことがらばかりで成り立っているし、そういうくだらない生活の集積が社会ってものなんでしょう。コンビニのレジに立つ知らないおっさんにも生活があっていろいろと大変なのだろう。この世はくだらないものたちのごった煮なのだから、すべての人のすべての行いは公的文書と同じようになんらかの形で保存されるべきなんだろうけど、げんじつ問題としてそんなことは不可能であるから忘れ去られていく。かなしい。だから、じぶんのおもったことやかんじたことはなるべく覚えていたいとおもう。

『高架線』という作品についてかたりたい。舞台はとあるおんぼろアパートの一室。代々の入居者とのそのまわりのひとびとのストーリーが、まあ筋もおぼろな物語のたまごみたいなものだけど、それが思わぬかたちでつながっていって、すこしおおきな川になる。その過程で、主観が溶けていく。なんだかわたしという存在が溶けきって、われわれという呼びかたでじぶんを語るようにいつのまにかなっていてそれが気持ちよい。そして、滝口悠生という書き手はとても優しいので、きえてなくなりそうなひとの営為に暖かいまなざしを用意してくれる。どんなにくだらなくても、人が生きる中で生じる呼吸音をだいじにしてくれる。最後に私が一番すきな場面を引用して終わりにしよう。独特のリズムで空き缶をたたき出した人物ともう一人とのたわいもないやりとりだ。

 

それ、なんていうリズム?

いや別に、なんていうのとかじゃない、いま思いついたのを叩いているだけだから。

それって明日もう一回同じのを叩こうと思ったら叩けるの?

これと同じリズムを?

そう

それは無理かな。

無理なんだ。

まったく同じのは、無理かな。

二度と?

二度と無理かな