地図に穿つ

これまで訪れてきた場所を余すことなくグーグルマップに登録しようと思っている。ひとりで勝手に進めている極めて個人的なプロジェクトだ。誰に見せるわけでもない。何かに役立つわけでもないだろう。ただ個人的な記憶の外付けハードディスクとして、電子地図を活用しようとしているだけだ。自分と少しでもかかわりを持ってもらった場所を忘れてしまうのが悲しいから、いつまでも覚えていたいから、こんなことをしている。

いままでたくさんの土地を訪れた。日本国内はもちろんのこと、学生時代はバックパッカー気取りで少なくない国に降り立ってきた。当時から訪れた場所をグーグルマップに登録しておけば面倒はなかったのだが、Maps.meなどの別の地図アプリを使っていたり、そもそも地図にいちいち記録をつけていたなかったりして、訪れた国や街の単位でアバウトにお気に入りマークをつけていただけだった。しかしそれではもったいないと思い、この機会にすべて更新してみることにあした。

そんな作業をしている中で、タイ・バンコクを訪問した際に泊まった宿の場所が分からなくて、いろいろと手掛かりを探っている。ただ、その宿に関しては当時の写真はない。仕方ないから、記憶の海に潜ってみることにした。

あの時の自分は大学生で、春休みを使って友人と二人で一か月のあいだ東南アジアを回っていた。ベトナムホーチミン(サイゴン)から入り、カンボジアアンコールワットを見て、そこから長距離バスでバンコクに入ったのだ。世界中から観光客の集まるバックパッカーの聖地・カオサン通りに着いたのは、夜の7時か8時ごろだったとおもう。半日車に揺られて我々は疲弊していた。とにかく腹が空いていたので、宿を探すよりも先に屋台でパッタイを頬張った。日本円で100円くらいだったそのタイ風やきそばは驚くほど美味で、それから7年たった今でもあの時の感覚を覚えている。

我々が舌鼓を打っていると、日本人バックパッカーを自称する若い男に話しかけられた。彼の泊まっている宿が安くていい感じなので、案内してあげるとのことだ。我々は警戒しながらも、疲れ切っていたので、彼についていくことにした。

案内された宿は確かに安かった。たしか一泊3ドルとかだったと思う。話に嘘はないのだが、しかし想像をはるかに超える不潔さであった。単純に汚いということに加えて、陽当たりが悪くじめじめしているし、電球が切れかかっているのかどの部屋も薄暗い。おまけに6人1部屋のドミトリーでは、そこに何年も住み着いているような”沈没者”がたくさんいて、それもたちの悪い沈没の仕方をしているように見えて、人生をあきらめた人々が醸し出す独特な”死臭”が部屋を包んでいた。

そんな嫌な感じしか残っていない宿ではあるが、そこに泊まったことは事実であり、なんとか場所を思い出そうとするが、カオサン通りのはずれの道をいった気がする程度の情報しか浮上してこない。記憶の中の行動と地図を突き合わせてみも全く分からないので、インターネット検索に頼ることにした。ただ、「カオサン通り 安宿」みたいに検索しても、出てくるページが扱うのは小ぎれいで清潔かつ明るい印象を与えるような宿の写真ばかりだ。あたりまえだ。あんな宿をお勧めするページがあったとしたら無茶苦茶だ。ただ彼らは彼らの最善の選択として、あのどうしようもない宿を掲載していないだけだ。だから、その宿が見つからないことに対して、何の文句も垂れるべきではない。それはわかっているが、いま見つけ出さなければ生涯あの宿の場所を思い出すこともないのだろうと思うと少し寂いので、いろいろな検索をかけて粘ってみたら、「カオサン通り 日本人宿 汚い」で検索したら出てきた。

A.T. Guest House ― それが、探し求めていた劣悪宿の名前であった。調べると今の今まで営業を続けているようだ。さっそくグーグルマップにお気に入り登録して、ストリートビューで目の前の道を覗いてみると、記憶がよみがえってきた。メインストリートからとんでもなく狭い道を通り抜けてこの宿にたどり着いたことや、目の前の狭い通りに並んだ屋台で朝食のヌードルを食べたことを。この場所のストリートビューにたどり着いていなかったら、一向に思い出すこともなかった記憶の断片に出会うことができて、なんだかうれしかった。あの時、自分は確かにこの場所にいた。その感覚を、忘れてはいけない。