文化力の敗退

五輪閉会式を見た。真っ先に思い出したのは、角川書店創業者・角川源義による「角川文庫発刊に際して」の文章である。

第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何(いか)に無力であり、単なるあだ花にすぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以降八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透(しんとう)を任務とする出版人の責任でもあった。

私たちは、今回の「復興五輪」にて、再び文化力の敗退を目にしなければならなかった。非力な私たちを常に励まし育んでくれた我が国のカルチャーが、政治や巨大資本に蹂躙される様を、ただ黙って眺め続けるしかなかった。両の頬を血の涙が流れる。悔しくてやりきれない。

選手入場が終わり、寸劇が始まったところから嫌な予感がした。昼下がりの公園という設定だとアナウンサーが説明する。どういうことだろう。そもそも口頭説明がないと設定の分からない演出とは。その後に出てきた沢山のパフォーマーはごちゃごちゃして統一感に欠け、そのうえ視覚的インパクトに非常に乏しく、なにがなんだか分からない。スカパラの演奏は悪くないが、選曲センスが目も当てられない。なぜ昼下がりの設定なのに「上を向いて歩こう」なのか。ひとりぼっちで夜道を歩く歌なのに。おまけに最後はなぜかベートーベンの第九。東京オリンピックで西洋クラシックを演奏する意味とは。これは西洋文化に白旗を上げたということなのか。いや、何も考えていないのだ。自国の文化に対するリスペクトなど何も持ち合わせていない守銭奴たちが取り仕切ればそうなるものだ。私たちの日本文化は、そんな連中のなんとなくの積み重ねの結果、無惨にもここに敗北したのだ。

この散々たる結果をどう受け止めるか。私は、私を育ててくれたこの国の文化が恥辱されて黙ってはいられない。文化的ナショナリズムの目覚め。必ずこの雪辱は晴らさなければならない。日本文化を最高の形で発信していくこと。どんな形で実現できるか分からないが、つらい時もうれしい時もいつも側にいてくれた私たちのカルチャーに、今こそ報いるべきではないだろうか。そう思って、自分がなんの影響力もないことに気がつく。この悔しさを噛み締めて、今日は眠る。