私の理想郷を返してください

赤の他人の旅行なんて、とことん興味がないものである。

この荒涼としたインターネット砂漠に星の数ほどのさばる旅行記を見るといつもそう思う。ほら、よくバックパッカーがやってるでしょ。訪問先の国で体験したあれこれを書き連ねたブログ。確かにそういうのって、その国をこれから旅行しようとする人間にとってはとびきりに役に立つものなんですよ、実際自分も情報収集において大変お世話になっています。でも、情報源としての機能を除けば、読むに堪えない文章で構築されているものが大半。ここにに行ってきた!!!!すごいでしょ!!!!という勢いにかまけて、それはそりゃあすごいんだけれど、旅行先のコンテンツ力に頼りすぎているという感が否めない。それはなんかダサいと思うんですよ。だって書き手にも旅行にも興味がない人間からしたら、何にも面白くない。なんか「俺たち変わってるよね」とか嘯き合いながら身内ネタでしか盛り上がれない凡庸なテニスサークルみたいじゃないですか。

でも、せっかく惑星の彼方まで脚を運んで蚊に刺されたりお腹を壊してまでして経験した色々な衝撃だとか感情だとか、そういうものを誰かに伝えようという気持ちはすごく分かる。そこでわれ思う。「読み物として面白い旅行記」を書きたいと。

しかし、残念ながら三島由紀夫村上春樹のような華麗な文章力や物語構成力は自分には皆無である。じゃあどうするか。自分という存在を見つめなおした。自分の特徴を最大限生かせればきっと3いいね位は貰える文章が書けるはずだ。自分の特徴を書き出した。

微妙に皮肉屋、陰湿、文章では強気

これだ!考えうる小物の性質をすべて滑こんだ人間ゴミ屋敷のような我の全存在を賭して、人間の負の領域に訴えかけるダークファンタジー(大げさにもほどがある)を紡いでいこう!こういう旅行記を書こうと、その機会をずっとうかがってきました。

前置きが長くなりましたが、この記事は今年2月に十日ほどの期間で旅行したミャンマーに関する物語です。この国を訪れるのは二回目。前述の通り読み物としての側面を意識していますので、若干の虚実混雑がありますが、ただちに健康に影響を及ぼすものではございません。

 

 

ミャンマー人は阿呆なのかもしれない

 突然だが、ミャンマー人は阿呆なのかもしれない。こんな風に書くと、時勢が時勢だけにポリコレ婚棒の鉄槌に糾弾され、必ず除かねばならぬ邪知暴虐なレイシストとしてツイッターは炎上、なぜか菜食主義を主張するNPO団体にも名指しで批判を食らい、国際問題にまで発展、ついには住所まで特定され自宅に大量の蜚蠊が送りつけられるなどの悪戯に会い、警察のサイバー犯罪対策課に相談に行くも「最近はそういうの多いですからねー」と軽くあしらわれ、泣き寝入りせざるを得ない、あーあの時軽いノリで旅行記なんて書こうと思うんじゃなかった、そもそも椎名誠みたいな旅行記に憧れて書き始めたわけだから諸悪の根源はシーナの阿呆野郎だ、なんてブーブーと独り言をつぶやくような事態になると困るので一応釈明しておくが、ここでいう阿呆とは「踊る阿保に見る阿呆」的な阿保であり、決して知能指数とかそういった問題の話をしているわけではない。ただただ、彼らが共有する文化精神の根本から漂うひょうきんな香りに僕が魅了された、というだけの話なのであり、どちらかというと真剣にやっているにもかかわらず体育の授業で珍プレーを連発しながらも微妙に活躍するクラスメイトに対するまなざしに近いかもしれない(自分も珍プレーを見られる側だった気もするが)。

今回の旅行で様々な仏教遺跡を見てきた。そもそもこの国には大仏と仏塔が多すぎる。仏塔なんて日本じゃほとんど見ることはないけれど、この国では一つの村に一つは必ずお目にかけるし、特にバガンという地域では3000を超える仏塔が立ち並ぶとされている。大仏も無限に屹立しているが、ただ数が多いだけでなく、その大きさも桁違いでありまして、たとえば今回訪れたレーチョン・サチャー・ムニ(名前からすでに阿保そう)の大仏は高さ115.8mという鎌倉の大仏の10倍ほどの超巨大スケールであり、さらにその前に111mの寝大仏がもう一体横たわっているという大きなおまけつき。とにかく阿保みたいに大きいので、遠くからそれを眺めたとしても遠近法がさぼりやがるから、なんだか異次元の世界に迷い込んだかのよう。こういう非現実性を前にしたとき、普通は畏怖だとかそういうものを感じるのであろうが、あまりにも大仏たちが大きすぎるので、なんだか笑うしかない。偉大な阿呆である。

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それから、大仏のご尊顔というのもどことなく阿呆が薫る。たとえばビャーデイペー・パヤーという寺院の大仏は、マンダレーの街を力強く指し示すポーズを取っているのであるが、その顔となると、目つきとか口元の造形とかどこか緊張感のないもので脱力する。極めつけはその横で大仏の指し示す先を見つめる従者で、何度見てもふざけているようにしか見えない。日本の大仏だとこうはいかない。たとえば鎌倉の大仏とか、あの野郎妙に威厳のある顔をしてやがるから、こちらが目の前で屁でもこうものなら、座禅を解いて空手チョップでもくらわしてきそうな威圧感を誇っていやがるが、このふざけた(失礼)顔した大仏様たちなら一緒におなら踊りを開発して踊り狂ってくれるようなそんな懐の深さを感じざるを得ない。

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もちろん、ミャンマー人にとっては大まじめなのだろう。大仏や仏塔の前では、いかにもヤンキーという風貌の若者も跪いて祈りを捧げていた。日本人にはどこかふざけている感じに見える大仏たちも、彼らにとっては尊厳を持ったものであるはずだ。物の見方は人によって違う。それでもやっぱり僕は思うのだ。ミャンマー人は阿保なのではないかと。

 

犬っころの倒し方

犬が怖い。こんなことを言えば鼻で笑われるかもしれないが、途上国の街を歩いているとその意味が分かるだろう。こういった国には、普通に都会でも野良犬がうろちょろしてやがる。実際インドでとち狂った犬の畜生どもに追いかけられたことがある。夜明けの列車に乗るために薄暗いデリーの街を歩いていたら、目の前で犬どもが吠えている。これ以上こっちに来るなという強迫である。しかし、この道を通らなければ、大きく迂回せざるを得ない。列車の発車まで時間もない(どうせ遅れるが)。仕方なく直進すると飛んで火にいる夏の虫、犬どもが吠えまくしたて追いかけてくる。「貴様ら、きび団子程度の眼前の報酬につられて鬼退治などというブラック業務に従事する羽目になった分際のくせして、何を人間様に逆らうか」などと心の中で悪態をつくも、現前の力関係の前では御託は無力。アントニオ猪木に「ビンタでは人を元気にすることはできない」と諭すようなものである。たまたま止まっていたトゥクトゥクの影に隠れて難を逃れたが、あの時の恐怖は生涯忘れることができない。

なぜここまで犬を恐れるのか。もちろん噛まれたら痛いということもあるのだが一番は「狂 犬 病」の三文字が頭をちらつくため。万が一奴らに噛みつかれれば、僕らはたちまち狼男ならぬ犬男に成り果て、「その声は、わが友、李徴子ではないか?」と問い続けることになりかねない。あの話は虎であったからなんとか絵面が持ったのかもしれないが、汚い犬っころになった男など気味が悪くて誰も作品性を賛美しないだろう。兎にも角にも、途上国の犬っころは恐ろしいものである。

ミャンマーもそのご多分に漏れず、いささか看過できない程度の野犬が往来を我が物顔で闊歩している。ヤンゴンでは夜分道を歩いている際、路駐してある車の影から現われた犬っころに吠えられた。とにかく犬が怖い。そんなことを、マンダレーのツアーで同伴してくれたガイドに相談したら、奴らへの対処法は第一に走って逃げださないこと。やつらは走ると追いかけてくる。もしそれでも襲ってくるなら、蹴り飛ばしが有効とのこと。この若干乱暴なアドバイスに加え、こちらがビビって弱みを見せてはだめだ、大声で威嚇して精神的優位に立つことが犬退治には重要であるという事前知識を持ち合わせていたので、これらを総合して大声で絶叫しながらとび膝蹴りを食らわせるという毛利蘭的防衛術が最適解であるという結論に達した。

その術を実践する機会は早速やってきた。道端で犬どもに遭遇。「そこを通るぞ」という目つきで睨むと、奴らも「やるのかこら」という態度を取り、こちらに近づいてきやがる。そこで「おんどれ、殴り〇すぞボケ」と、知っているあらゆる罵詈雑言の中から最も脅し文句に適していると思われるフレーズを絶叫しながら奴らを蹴り上げる真似をしていたら、その形相に恐れをなしたのか、はたまた「殴る」と宣言しながら「蹴り」の準備をしている支離滅裂さに困惑したのか、犬っころどもは尻尾を巻いて逃げだした。それを見ていた現地人達は拍手喝采。その雄姿を録画していたどなたかが動画をインスタにアップ、たちまちバズって僕は「犬殺しのクレイジージャパーニーズ」として一躍時の人となったのだ。こうしてヤンゴンを舞台とした人類と犬っころとの最終決戦は、人類の大勝利で幕を閉じた。

もちろんすべて妄想である。

 

ヤンゴン灼熱

灼熱が鼻を撲ち、いつもの自分が消えていく。

ミャンマー最大の都市、ヤンゴン。この街は、あらゆるものを飲み込んで、その姿を肥大させていく。往来を行きかう人々が吐き捨てる噛み煙草の赤い唾液も、刻々と立ち並んでいく巨大なビルディングも、誰にも言えずに塵となる様々な思い出も、この街の一部となっていくその様を、街外れの丘上で金色に輝く巨大な仏塔が見つめている。

シュエタゴンパヤー。黄金の仏塔。円墳型の下部を台座として天上にそりたつ尖塔が伸びる。ひねもすこの国中の敬虔な仏教徒たちが跪き、全ての来世が約束される。そんな金色の仏塔に見守られて、全てを焼き払わんとする太陽に射抜かれた街のすべてが、情熱的に鼓動する。

埃っぽい熱射が、マハバンドゥラー通りを行く僕の肌を突き差す。人ごみであふれかえる往来の遠くに、僕の分身が見えて、そいつの手招きに誘われた僕は、この無限の横丁に消えていく。遠くには、黄金のシュエタゴンパヤーを乗せた東京のまちが、刹那として見えた気がした。

 

 

 

どうも自分はミャンマーという国を神聖化しすぎていたきらいがある。

前回訪れた3年前、まさしくこの国は理想郷に見えた。人がやさしい。バスでおなかをすかせていると隣のおっさんがミカンをくれたり、レンタルバイクが溝にはまってしまった時はみんなで助けてくれたし、迷子になって途方に暮れていると目的地までバイクで連れていってくれる人もいた。そして息をのむような遺跡群。絶対にこの国にまた来ると心に誓った。

しかし今回久しぶりに来てみると、そういう良い面だけではないということが身に染みた。初日から鬱陶しいくらいに客引きに付きまとわれたし、食堂車で食べ物の料金をごまかされたり、ヤンゴンの裏道に連れ込まれた日本人の話を聞いたり。なんだかそういう目に合うと自分の理想郷がどこかに連れていかれていってしまったようで急に不安に駆られてしまう。

それでも、この国が好きである。悪い人間もいるけれども、ほとんどの人はやさしいしとても気さくだ。そして何より、この国ではさまざまな想定外の感情に出会うことができる。そのことを今回筆を執ってみて再認識させられた。理想の中で膨らむイメージをこの国は拒み続ける。理想は更新され続ける。なぜならそこに住む人々の生活はかたちを変えながら続いていくから。

いつかこの国を再び旅するだろう。その時にまたつぶやくのだろう。私の理想郷を返してくださいと。