湯浅政明『犬王』

『犬王』を見てきた。最高だった。勢いで、人生捨てたもんじゃないなとツイートした。はた目からは病んだ人間のつぶやきにしか見えないかもしれないが、まあそういうわけではなくて、エンターテインメントの素晴らしさ、つまり、想像力には現実に美しい色を添える力があるのだと、改めて確信できた点に重きがある(のだが、変に邪推されないか不安でもある)。

本作の題材となった犬王は、室町時代に活躍したとされる能楽師であるが、作品は現存しておらず、いわば忘れられたポップスターとでも言えようか、彼がどういった舞を見せ、どのように人々を魅了してきたのか、その手掛かりは残滓すら残されていない。では、犬王や彼の舞を目にした人々の熱狂は、歴史に残されていないあれこれは、つまりなかったことと同義なのであろうか。そうではない、我々が思いを寄せることで、想像の力で手繰り寄せることで、彼らの生は無条件に肯定される。そういった鎮魂と想像こそが本作の根幹であり、私は本作を見終わった後にこんな小説の一説を思い出した。

そこらに立っとる石碑石仏墓石を見んかい、伝わらんでも人の思いが残る法もあると知らせとるがな。その思いを後世の人間が汲んでやれば、当人たちも報われるっちゅうもんやないか。(乗代雄介「皆のあらばしり」)

しかし、鎮魂や想像は別に改まったものである必要はない。湿っぽいものに留まる義理もない。先人たちの霊を思う祭りごとと同じように、派手に、面白く、愉快に踊り狂う景色を想像の世界に仮託するのもよいだろう。

琵琶法師・友魚がかき鳴らすエレキギターのような音色となり、犬王の舞はどこまでも現代的であり、舞台演出は明らかに現代技術が用いられており、そして観衆たちは夏フェスのように手を打ち鳴らして熱狂する。室町の世界に、そんな景色はなかったかもしれない。なかったかもしれないが、あったかもしれない。そんなことはどうでもよくて、ただただ風景が想像力の中で爆発する。それは、同じく京都を舞台と下森見登美彦太陽の塔」のクライマックス、ええんじゃないか騒動が共鳴する。

それから後に巻き起こった四条河原町ええじゃないか騒動について、正確に書くのは難しい。なぜなら、あまりにも大きく膨れ上がった怒涛のような騒ぎに巻き込まれて、私にも全体どういう騒ぎになっているのか分からなかったからである。ちょうど祇園祭のただ中にいるようなものだった。

四条河原町を中心に騒動は縦横に広がり、夜空へ「ええじゃないか」の声が響き渡って、クリスマスイブを吹き飛ばしてしまった。押し合いへしあいする人々が楽しそうに叫んでいた。夜の明かりに照らされた人々の顔は、ぼうっとして上気していた。(森見登美彦太陽の塔」)

現代も過去もない。現実も虚構もない。そこには、ただイメージがある。

私はこの映画を見て、良かったと思った。それは、いつかどこかで私が今日このとき思ったことを拾ってくれるかもしれないと思ったから。何百年後、私の体躯は朽ち果てて、歴史書のどこにも名前はないだろうが、それでも、私の思念だけは残存し続けて、あったかもしれない内面として誰かに想像されるかもしれない。それほど嬉しいことはない。世界は思ったよりも美しいのだと、それを知る。映画は世界の言葉を拾って、どこまで伸びていく。巨大樹の頂上から見渡す世界の風景は、思ったよりも悪くない見晴らしだ。