武田綾乃『石黒くんに春は来ない』

 

石黒くんに春は来ない (幻冬舎文庫)

石黒くんに春は来ない (幻冬舎文庫)

 

学生時代を思い返すと怒りが止めどなく噴出してどうにもならない。スクールカーストとかいう現代の階級制度に虐げられた我々第三身分は、ただ装いや振る舞いがちょっと(!?)イケていなかったというただそれだけで、美しき青春を謳歌する権利を不当に簒奪されたのである。俺の青春を返せ。そして、"上"にいる奴らはいつも我々を下に見て薄ら笑いを浮かべてやがるんだ。こんなことは断じて許されない。「万国の労働者よ団結せよ」と声高に宣言して大革命を煽動する者が出てくればと願いしも、下の者は横のつながりも希薄なので大抵はアンシャンレジームが覆されないまま卒業を迎えるのである。

『石黒くんに春は来ない』は、そんな革命を実際に起こそうとする小説である。簡単に言えば、スクールカースト頂点グループに対する不満が様々な事件を経て膨張していく物語なのだけれども、"下"から見た教室世界のあり様があまりにリアリティを伴っているため虚構であることを忘れて手に汗握ってしまう。全体LINEでの発言を許されるのは一定階層以上という暗黙知や、意中の相手が"上"のアイツに気があるとわかると「結局、顔かよ」と言ってしまうメンタリティは、正にあの時の我々が抱えていた恨み辛みの反射である。なによりも自分のお気に入りは「ほら、大人ってさ、いじめられっ子よりいじめっ子のほうが好きだから」という台詞に込められた怨念。結局、周りに気を使ってびくびくしながら過ごした優等生くんのことなんかだれも覚えてないだろうし、問題を起こすヤンキーやゴリゴリの体育会の方が印象に残っていつまでも忘れないのだろう。くたばれごくせん!

話が逸れてしまったので本題に戻そう。前記の通りこの小説のテーマはスクールカーストの転覆にあるのだが、これはしかしとても危険な物語でもある。細かな描写にリアリティが迸るがゆえに正に自分のクラスでの出来事のように認識してしまい、すっかり主人公サイドの正義に没入してしまうのだ。そして革命が進行する中で、本当に"上"を血祭りに上げてやれという気持ちが抑えきれなくなる。そこに正当性があるか否かは殆ど考慮されずに感情だけが論理として働く。つまり、物語の力に流されてしまい、一面の正義でしか物事を判断できなくなる。フランス革命でも共産党革命でも起こった正義の暴走という奴だ。民衆を熱狂させるテーゼは、たとえそれが正しさから出発したものであっても、いずれ得体の知れない怪物となって世界を蹂躙する。故に我々は常に理性の光を絶やしてはならない。それが私たちが歴史から学ぶべき教訓であり、この本が途中で提示する思考の一つの選択肢でもある。

とかなんとか言って偉そうな講釈を垂れてみたが、正義の暴走とかそんなことは本当はどうでもよくて、ただあのくそったれな日々の闇に鉄槌が下れば私はそれでオーライです。あの腐った日々も仕方がなかったのだと納得することはできない。そんなことは、断じて許されない。だから、自己正義の刀を振り回してあいつらをぶちのめす。頭の中でならいいでしょ。現実では革命なんて起こらずに今日もまた虐げられているんだから。本を読んでいる時くらい、自由に妄想させてくれ。ええじゃないか。とにかくこの本を読んで、あの日あの時教室で死んだ自分の仇を取れ。これは弔い合戦だ。

But I’m a creep

Radioheadはあまり詳しくはないのだが、『creep』は世界で七番目くらいに好きな曲。"But I'm a creep"って歌詞はもはや家訓にしたい。美しい世界に入り込みすぎて自分の醜さに気付いてしまう哀れな男の歌。まあ、この歌詞の良さが分からない人間が人生の勝ち組なんだろう。なんと熱がこもりすぎて勢い余って全詞邦訳してしまった。

When You Were Here Before

Couldn’t Look You In The Eye

傍にいても目を見ることすらできなかった

 

You’re Just Like An Angel

Your Skin Makes Me Cry

天使のような君のぬくもりで僕は泣くのさ

 

You Float Like A Feather
In A Beautiful World

君が羽ばたく世界は何よりも美しい


And I Wish I Was Special
You’re So Fuckin’ Special

光になりたいんだ

君が僕を照らすように

 

But I’m A Creep, I’m A Weirdo.

What The Hell Am I Doing Here?

I Don’t Belong Here.

だけど僕は気色の悪い奴さ

なめくじみたいで反吐が出る

なんで生きてるかも分からない

死んだ方がましなのさ

 

I Don’t Care If It Hurts
I Want To Have Control
I Want A Perfect Body
I Want A Perfect Soul

痛みを伴っても構わないから

全てを手に入れたい

心も体も君に捧げる

 

I Want You To Notice
When I’m Not Around

君は僕に気付いている?

たぶん知りもしないのだろう

 

 You’re So Fuckin’ Special
I Wish I Was Special

君が僕の全てであるように

僕も君の全てでありたい

 

But I’m A Creep, I’m A Weirdo.
What The Hell Am I Doing Here?
I Don’t Belong Here.

だけど僕は気色の悪い奴さ

なめくじみたいで反吐が出る

なんで生きてるかも分からない

死んだ方がましなのさ

 

She’s Running Out Again,
She’s Running Out
She’s Run Run Run Run

てのひらから光が溢れる

君の幻から覚めてしまう

行かないで 行かないで 行かないで

 

Whatever Makes You Happy
Whatever You Want

You’re So Fuckin’ Special
I Wish I Was Special

たとえあいつと付き合っても

君が笑ってくれるなら

それで全てが完璧なんだ

 

But I’m A Creep, I’m A Weirdo,
What The Hell Am I Doing Here?
I Don’t Belong Here.
I Don’t Belong Here.

でもさ、僕はとても気色が悪いから

生きる価値もないだろう?

死んでしまった方がましさ

死んでしまった方が…

笑う

M-1グランプリ2019のファイナリストが発表された。事前予想は願望込み込みでこんな感じ(和牛、かまいたち、ミキ、四千頭身、金属バット、ダイタク、ミルクボーイ、ぺこぱ、すゑひろがりず)であったが、後ろ三組の全通過は全くだに予想しなかった。大波乱の選出。近年の大会においてミキ(ヒール役感)や和牛(ラスボス感)が果たしてきた役割は好き嫌いを置いておいて大きかったと思うのだが、果たして彼ら抜きの大会がどうなるか(もちろん敗者復活の可能性はあるけれど)。運営の本気度は十分伝わった。

とにかく自分の推しとしてはすゑひろがりずGyaoで発表中継を見ていたが、名前が呼ばれた瞬間思わず叫んでしまった。興奮冷めやまぬ間にYouTubeチャンネルを一気見してガハガハ笑っていた。

https://youtu.be/fxuxF8W-Qlg

もう一組の推しはぺこぱ。新しい漫才のシステムを作り上げており、うまくハマれば台風の目になるはず。しかし、同じく笑けずりの雄であるAマッソも本来ならこの位置にいないといけないよね。

全身!

怪文が好きだ。有名な2ちゃんねるのスレッドで「消えたとて浮かぶもの」というものがあるのだがこれが正しく理想型。

たとえばそれは台所にあるとします
私がそれを取ろうとすると浮かんでいたはずのものも沈みますね?
だから最初から消えていたと理解して撮ろうとしてもやはりそれは存在しないといえます
次にわたしが言うことは「消えた」ということ
消えたのなら最初はそこにあったはずです
なのにそれ(例えですが)は浮かんでいるのですから掴める訳ありません
もし掴もうとしてもやけどしたりしますからそこまでのリスクを伴ってまで(経済的負担は除きます
消えるのを防がなくてもいいと思います
友達に言ったのですが相手にされなかったので、皆さんの意見を聞きたいです

全く持って支離滅裂な文章でありながら、斯界の認識能力では把握しきれない真理のような何かを必死に伝えようとしている気がする。それに対する「多分あんたが言いたいことは、書き言葉の文章という媒体では表現しきれないものだ。イラストか、芝居か何か他の物で表現してくれ」というレスも殺伐としたネット社会にしては珍しく優しさに溢れた言葉であり涙が出そう。嘘。

松屋という地獄

12/2

世界各地の安飯屋を回ってきたが、松屋ほど地獄の様相を呈した飲食店は他にないと思うのである。食券機の使い方がわからないと喚く老人、混んでいるのに荷物で椅子を埋める肉体労働者、高級レストラン並みのサービスを求める淑女、虫すら住みつかない衛生状態、極め付けにくたびれ切ったホワイトカラーの貧乏揺すりで大地な揺れる。客が店員を呼び止めると店全体がピリピリとした緊張感に包まれ、皆が聴き耳を立ててどんなクレームが飛び出すか待ち構える。ごく稀に聴こえる「御馳走様」みたいな普通の言葉がアスファルトに咲いた一輪の花のようでなんだかほっこりしたりしながら、掃き溜めに住う都市生活者たちの人生は続く。

同じ名前の双子

12/1

ツイッターで回ってきた『タッチ』に関する記事を読んで改めて思ったのであるが、大事なことをそのまま語らない「照れ」の感覚こそがあだち充作品の醍醐味である。「人の死の受容」という重厚なテーマを扱いながらクサさを徹底的に排除して『タッチ』をまとめ上げた手腕はもっと評価されて良い筈だ。声高に叫ぶ台詞や大袈裟な感動よりも、些細な仕草で表現する感情の機微を大事にしたい。

タッチといえば双子であるが、双子の子供に同じ名前を付けたらナイス狂気だよね。とか考えたりしたけども同一戸籍内に現在いる人と同じ名をつけることはできないようです。残念だ。しかし別の漢字であれば同音にすることはできる模様。そういえば「ビックダディ」の三つ子の名前の読みが全員「こころ」だった気がする。まあ、今思うとあの番組自体が狂気だったよね。

すゑひろがりず

11/30

すゑひろがりずをご存知か。狂言を取り入れた漫才でM-1準決勝に勝ち進んだ異色のお笑いコンビである。神聖視されがちな伝統芸能と笑いとの親和性が意外と高いことはチョコレートプラネットが証明済みであるが、教養とくだらなさのアンバランスを極限まで追究したのが彼らである。掛け値なしで面白いので騙されたと思って見て欲しい。「これは漫才とは言えない」という批判もあるかもしれないが、M-1決勝まで進めば台風の目になることは間違いないだろう。