石田祐康『ペンギン・ハイウェイ』


 

ぼくはそのふしぎさをノートに書こうとしたけれど、そういうふしぎさを感じたのはノートを書くようになってから初めてのことだったから、うまく書くことができなかった。ぼくは「お姉さんの顔、うれしさ、遺伝子、カンペキ」とだけメモを残した。

 夏休み。今では光の速さで過ぎ去ってしまうこの季節を、幼いころの僕たちは一生のような長さに感じたのだろう。家を飛び出し、町や山に繰り出す少年たちにとって、この世界は無限に広がる永遠そのものだ。そんな冒険のさなかには、かならずしも知っていることや共感できるものばかりが転がっているわけではない。訳のわからない不気味なもの。それを<謎>と呼ぶ。そんな経験を通して、この世界の全てを理解することはかなわないということに彼らは気づくのである。

この『ペンギン・ハイウェイ』という映画は、「お姉さん」という存在の謎をめぐる少年たちの冒険譚である。主人公のアオヤマくんはある意味での天才少年であり、彼にかかれば世の中の大抵のことは理解できる。しかしそんな科学の子であってもどうしても解けない<謎>がある。それが町に現われたペンギンとお姉さんについてである。この記事の冒頭の引用は、そのお姉さんについてのアオヤマくんのつぶやきだ。理路整然とノートに書き記す天才少年が、「お姉さんの顔、うれしさ、遺伝子、カンペキ」というたどたどしい文章でしか表現できない<謎>。それは、刹那の輝きを見せながらうまく掬うことのできない砂金のような感情。物語の最後、その得体のしれない何かを忘れることなく大事にしようとするアオヤマくんの姿に僕らは胸を打つのだ。

正直この物語はすっきりと終わらない。子どもには難しすぎる映画だという意見もあるだろう。確かに、子どもが全ての内容を理解することは不可能だろう。僕もできなかった。そうかもしれないが、ではこの映画を見た子どもたちの心に何も残らないかと言えば、そんなことはないはずだ。思い出してほしい。僕らが「大人帝国」や「ミュウツーの逆襲」を見たときに感じたあの気持ちを。それを無駄だというのならば、ぼくはそいつの顔を幾度となく殴りつけてやろう*1。そんなものを持ち出さずとも、キャッチーでスーパーにポップなシーンが随所に盛り込まれているから。特に、街をペンギンが闊歩するオープニング部分と、クライマックスのペンギン飛行。大人も子どもも、ポケモンの映画を見るくらいの気持ちで観ればいいのだ。

贅沢を言えば、あと少し放映時間を縮めることができれば文句なしの最高傑作だったと思う。しかしそれがあったとしても、傑作には変わりないのです。これを見なければ平成最後の夏を過ごしたということはできない。そう断言したい。

 

以下はネタバレ有りの考察になります。

 

 

 

 

 

 

 

実はこの映画、アオヤマくんのに注目すると展開がわかりやすくなる。まず彼の歯は―もともとは乳歯であるが―ペンギンが街に現われた段階でぐらぐらし始める。そして、お姉さんがコーラ缶を投げるタイミングで、すなわちお姉さんがいよいよ<謎>そのものであるとわかった瞬間に、その乳歯は抜かれる。その後、もちろん乳歯の抜けた後は何もない<抜け>になるわけだ。この<抜け>を、彼が舌で触る場面が幾度か移されるが、これはすべてお姉さんに会えていなかったりと少年が不安を抱えている場面なのである。すなわち、いままでそこにあったはずの歯の不在を確かめる動作が、少年の不安定な心情を象徴しているのである。そして物語の最後、お姉さんが去ってからしばらく経過した場面では、彼の歯はしっかりと生えそろっている。これは、お姉さんの不在という不安状態から脱したことを意味する。

以上をまとめてみよう。初め乳歯=赤ん坊であった少年が、ペンギンの出現により今までの自分の土台が揺らぐ。もはや赤ん坊のままでいることのできなくなった少年は、お姉さんという<謎>に導かれて冒険に出る。これまであった歯がないことに不安を抱えながら(<抜け>)。そのような不安を克服し、冒険の果てに<謎>の核心まで迫った少年は、お姉さんとの決別を経て、大人(永久歯の生え代わり)になるのだ。

もうひとつ、少年の成長を象徴する場面がある。それは、最後の独白。

ぼくは世界の果てに向かって、たいへん速く走るだろう。みんなびっくりして、とても追いつけないぐらいの速さで走るつもりだ。世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである。その道をたどっていけば、もう一度お姉さんに会うことができるとぼくは信じるものだ。これは仮説ではない。個人的な信念である。

科学の子であった少年が、ことばの範疇から抜け出して、語りえぬ感情の大切さを肝に銘ずる。科学から信念へ。それは一見幼稚への退化に見えるかもしれないが、少年にとっての大きな一歩であった。

*1:妄想の中で