WBC2023日本代表に寄せて

体の奥底から熱いものがこみあげてきたのは、フルカウントから投じられたスライダーがマイクトラウトのバットをすり抜けた瞬間でも、激闘を戦い抜いた男たちが抱き合う時間でも、英雄たちが胴上げでマイアミの宙を舞ったタイミングでもなく、世界中の興奮がいったんの落ち着きを見せた頃合いだった。

ああ、WBCは終わってしまったのだ。もうこのチームを見ることはできないのだ。そんなことを考えたら、寂しくなって、悲しくなって、でもなんだかうれしくなって、でもやっぱり寂しくなって、もうぜんぶ分からなくなって、とにかく涙が止まらなくなっていた。

チームが結成されてから、宮崎キャンプからカウントしても一か月ほどの期間しかない。それだけの付き合いでしかないのに、これほどまでに愛着をいだいたチームがいまだかつてあっただろうか。

若手をまとめあげるダルビッシュの献身(一般人とSNSでしょっちゅう喧嘩していたころを知っている身としては彼の精神面での成熟には感慨深いものがある)、人間性だけでなくプレー面でもファンの心をつかんだヌートバーのハッスル、不振にあえぎながらバットを振り続けた村上の復活、すべての選手がかみ合って、これ以上ないチームが出来上がった。そしてその中心には、いつも大谷翔平がいた。

大谷が現れる、大谷がバットを振る、大谷がボールを投げる、大谷が口を開く。なんでもないひとつひとつの所作にファンは湧き、ファンでもない人間も注目し、一流の選手たちもが熱狂した。日本野球が生んだスーパースター。大谷を表現するにあたって、これ以上の言葉はないだろうし、彼が代表チームを率いたからこそ、ここまでの熱狂が生まれたのだろう。

もちろん、大会を盛り上げたのは日本チームだけでない。トップリーグのプレイヤーたちがこぞって、自国の野球の威信をかけて戦った(一流選手に参加を勧め続けたマイク・トラウトの功績は見逃せない)。十年前は閑古鳥が鳴いていた世界各地の球場にも、いまでは満員の観客が埋め尽くし、それぞれの熱狂が、ひとつならざる感情が、そこに満ちていた。WBCという大会が、いや野球という文化が、先人たちが捲いた種を実らせて、ここに大きな花を咲かせたのだ。

準決勝で日本に敗れたメキシコ代表の監督・ベンジー・ギルは試合後にこう語った。

Japan advances, but the world of baseball won tonight.

「日本が勝ったが、今夜は野球界の勝利だ」

まさにそうなのだ。勝ったのは、野球でありbaseballであり棒球なのだ。このあまりに素晴らしい言葉を聞いたとき、野球という文化を愛してきて本当によかった、意味があったのだと思った。はじめて両親に連れて行ってもらった東京ドームでの興奮が、テレビにかじりついてプロ野球を見ていた日常が、がらがらの神宮球場に足を運んだ思い出が、河川敷の球場で下手なりに白球を追いかけた青春が、すべてここにつながっているのだと、本気で思えた。そうだとしたら、私も少しは、この野球界の勝利に貢献できたのかもしれない。なんて考えながら、ひとしれずまた静かに泣いた。

文学フリマ東京35を経て

口ロロに『マンパワー』という作品がある。高校生の時に聴いていたこのアルバムが、なぜか昨日今日の自分の脳裏によく響く。2013年、震災が後姿を見せ、東京スカイツリーが開業したあの頃の雰囲気がまるごと詰まった音楽だと思う。そのような時代性の帯電になぜいまこの時の自分が惹かれるのか、定かなことは分からない。それによく調べたら、このアルバムが出たのも、スカイツリーが開業したのも、どちらも2012年らしい。まったく適当なものである。たくさん聴いた音楽なのに。時代感覚が分からなくなっている。ひとの記憶とは案外そんなもので、大事だと思っていることだって簡単に忘れてしまうし、どうでもいいことばっかりは覚えていたりもする。

文学フリマ東京35に出店した。同人誌の即売会、コミケの読み物版的なその場に、『みりん、キッチンにて沈没』とかいうふざけた名前の短編集を出した。ひとつも売れなかったらどうしよう。当日まで不安は尽きなかったが、意外と売れた。いろんな人が買ってくれた。わざわざこの本を買いに来てくれる人もいた。嬉しかった。

マンパワー』を聴いていたころ、2012年でも2013年でもいいのだが、そのころの自分は、将来自分が本を出すことになるなんて夢にも思っていなかった。自分の書いた文章が知らない誰かの頭に吸い込まれていくなんて思わなかった。それは叶わない夢への憧憬ではなく、ただ単に世界の広がりに気づいていなかった。自分で言葉を紡げること、紡ぐことが許されている世界に生きていることに、気づいていなかった。

十年という歳月が流れた。その間に、たくさんの人に出会った。多くの本を読んだ。音楽も聴いた。映画も観た。いろんな感情に遭遇した。少なくない風景を見た。いやなこともあった。楽しいこともあった。その間、ずっと自分の奥底に、言葉が、物語が、溜まっていった。いつかそれがあふれ出して、そうやって、一冊の本になった。本がたくさんの人の手に渡った。どこかで、誰かの言葉のいちぶになってくれたら嬉しい。なんて思いながら、このブログを書いている。

ひとつ節目となった2022年。十年後から見れば、またそれも遠い記憶となっている。そしてまた、文学フリマに初めて出たのは2023年だったよなとか、『マンパワー』でも聴きながら勘違いするのだろう。まあでも、入り混じった記憶の中に、この美しさだけ垣間見えたらそれでよい。

『silent』と草野正宗の言葉

前書き(よまなくてもいいです)

歳をとるごとに涙腺が緩んでいくと聞いてはいたものの実際に自分が二十代も後半に差し掛かり思うのは自身の涙の価値がだんだんと下がっているということにある。いやそもそもの話てめえの汚い涙になんて誰も興味ないぜアホンダラと言われたらこぶしを握りしめて唇をかみしめるしかないのだが、しかしまあこの世に生を受けて日本国民の三大義務ぐらいは果たしている身としてそのぐらいの主張があっても許されるのではないか。

さて、何の話か。そうそう、なんか『silent』とかいうドラマが話題らしいじゃないか。ほう、どうやらスピッツが物語に大きくかかわってくるのか。一見すると「親と友達とこの世界に感謝系のキラキラ難病モノ」みたいな感じで気に入らんのだが、試しに見てみるかとTverの見逃し配信に手を出したのが約3週間前、そしていま私の部屋では滂沱の涙を垂れ流す三十路男がスマートフォンの小さな画面をじっと見つめているではないか。

枕が長くなったが、要するに、このドラマは、最高である。最高だから、何かこれについて書きたいと思った。どうせ書くなら、スピッツを絡めて書きたい。じゃあ、「草野正宗の詩世界を参照しながら、本ドラマの魅力に迫る」みたいな記事を書いてみよう、というのが、本記事の趣旨なのである。

↓から本題。

 

「表の意味」を越えて

さわやかで端麗なパブリックイメージに反し、スピッツ草野正宗の詩世界には「死と性」が重低音として鳴り響いており、実際かつて草野はインタビューにて「俺が歌を作るときのテーマって”セックスと死”なんだと思うんですよ」という言葉を残している。一方で、物語に欠かすことのできない装置としてスピッツの楽曲が動員されるドラマ『silent』においては、「死と性」は清々しいほどに顔を出さない。誰も死なないし、誰も交わらない。しかし、脚本を務める生方美久が自身のTwitterで「スピッツの「楓」みたいなお話書いてる」と投稿している通り、本作の底流には確かに草野が紡ぐ言葉が鳴り響いているのもまた確かである。では、生方は草野文学の核「死と性」以外のどういった部分を本作に塗りこんでいるのだろうか。それを探るためには、草野の言葉が持つもうひとつの魔法、意味性の超越について考える必要がある。

草野は自身が所有する圧倒的言語センスとは裏腹に、言葉というものに対して多くの信頼を寄せていない。いやそれどころか、「言葉はやがて恋の邪魔をして/それぞれカギを100個もつけた」(ハヤテ)と書くように、かえって言葉がコミュニケーションを疎外することにすら意識的である。だがしかし、草野は言葉そのものを信じない代わりに、言葉に付随するあれこれについては積極的に肯定を見せる。「誰彼すき間を抜けて/おかしな秘密の場所へ/君と行くのさ/迷わずに/言葉にできない気持ち/ひたすら伝える力/表の意味を超えてやる/それだけで」と綴る「初恋クレイジー」の言葉はまさに象徴的であろう。この「秘密の場所」というのは、代表曲「ロビンソン」で語られる「誰も触れないふたりだけの国」と同義であると考えられ、要するに、言葉の「表の意味」ではない何かによって「ふたり」の関係は一般的コミュニケーションを超越した地平線へと引き揚げられるわけである。

このことは、『silent』にも登場する「魔法のコトバ」の歌詞「魔法のコトバ/口にすれば短く/だけど効果は/すごいものがあるってことで/誰も知らない/バレても色あせない」にもしっかりとあらわれていて、ここでもやはり「誰も知らない」「魔法のコトバ」によって「表の意味」を越えて「誰も触れないふたりだけの国」に到達できることが示唆されている。

本ドラマにおいても、言葉が「表の意味」を超える瞬間は枚挙にいとまがなく、と言うよりむしろ、それこそが主題と言っても過言ではないだろう。では、表の意味を超えるためにどのような魔法を言葉に塗りこんでいるのかといえば、それは、とてもありきたりかもしれないが、「想い」である。「言葉はまるで雪の結晶/君にプレゼントしたくても/夢中になればなるほどに/形は崩れ落ちて溶けていって/消えてしまうけど/でも僕が選ぶ言葉が/そこに託された“想い”が/君の胸を震わすのを諦められない/愛してるよりも“愛”が届くまで」という主題歌「Subtitle」(Official髭男dism)の歌詞を引用するまでもなく、本作ではあらゆる言葉に想いが(意識的/無意識的を問わず)込められており、たとえば紬の「ハンバーグ以外」という言葉には、たとえば古賀先生の「佐倉ダサいわ」という言葉には、たとえば奈々の「聞くよ」という言葉には、「表の意味」を遥かに超えた「想い」が込められているではないか。

しかしまた、言葉に込められた裏の意味がすぐに伝達されないことだって往々にしてある。「好きな人がいる」という言葉に想が込めた想いに紬は八年間気づくことができなかった。紬もまた「普通に、声で話せるんですけどね、湊斗とは。伝わらないものですね」と想いの伝わらなさを嘆く。そのような「伝えたい/伝わらない/その不条理」こそ人間関係の本質なのかもしれない。そのように言葉に閉じ込められた想いは、しかし、あるときひょっこりと顔を出して、私たちはまなこを潤ませることになる。そのような落涙の中で、根っからのスピッツファンである筆者などは、「隠し事の全てに声を与えたら/ざらついたやさしさに気づくはずだよ」(ベビーフェイス)という草野の言葉を思い出してまた泣く。『silent』というドラマの素晴らしさは、融解した想いのきらめきにこそあるのだと、強く思う。

 

告知

11月20日文学フリマ東京35に短編集『みりん、キッチンにて沈没』を出品します。

表題作はカクヨムに全文掲載しておりますので試し読み感覚でご一読いただけますと幸いです。

面白いと思ったら、ぜひ当日ブースにお越しください!

kakuyomu.jp

第167回芥川龍之介賞 受賞作予想

勝手に芥川賞受賞作予想企画、今回も実施します。誰が読んでるのか分からんけど。

初めに、受賞作を予想するにあたって重要視したポイントをあきらかにしておくと、それはひとえに前衛性という部分に集約される。「芥川賞は、雑誌(同人雑誌を含む)に発表された、新進作家による純文学の中・短編作品のなかから選ばれます。」と公式ページにも記されている通り、純文学のフィールド上で作品性が競われるべきで、それでは純文学とはなんぞやと問われれば非常に難しい話ではあるのだが、既存の価値体系の外側を見せてくれるような芸術性、すなわち前衛さを備えた作品だと私は勝手に解釈しており、本記事でもそちらを採用する。ゆえに、たとえ物語としての完成度が高いとしても、新しい価値観を提示できていなかったり、どこか既視感ある部分が見受けられたりすれば、それは受賞作に値しないと判断する。逆に現在の文壇や社会の体制を打破しうるような作品については高く評価することとする(ただし話が面白いことは大前提です)。

さて、以上をふまえて、まずは各作品について見ていこう。

「ギフテッド」は、細部の描写がしっかりとしていて作者の筆力は確かなものがあるのだが、正直にいってあまり面白いとは思えなかった。死期迫る母親とホステスの娘との関係を描いているのだが、どうもどこかで何度か見たことのあるような、ありていに言えば使い古された設定で、何か新しい価値観を提示してくれるわけでもなく淡々と進んでいってそのまま終わってしまう。先ほども書いた通り状況の描き方はしっかりとしているからノンフィクションであればいいのかもしれないが、芥川賞にふさわしいかと言われればどうなんでしょう。

「あくてえ」は、老いの進んだ「ばばあ」に翻弄される母娘の関係性を描いたシスターフッド的作品。これもまた既視感のある設定や描写が特に序盤は目立ったのだが、それでも読み進めていくと、なんだろう、主人公たちが本当に不憫で、要するにしっかりと嫌な気持ちになる。嫌な気持ちと言うのは文学にとっては大事なものだと思うし、読者の感情コントロールが非常にうまいと思った。これが直木賞であれば推した。のだが、やはり何か新しいものを読んだという感覚は残らなかったため、芥川賞の受賞には至らないと判断する。

個人的に一番面白く読めたのは「おいしいごはんが食べられますように」であった。高瀬隼子は以前の芥川賞候補作となった「水たまりで息をする」も好きな作品で、そちらは「風呂に入る」という常識的習慣を相対化する物語であったが、今回も引き続き「食べる」というありふれた行為を中心に身の回りにあふれた常識に翻弄される人々を描おた物語となっている。前作でも感じたが、著者は人々の繊細な心情とか抑圧されている感情の機微を描く点で天才的であり、角田光代村田沙耶香の系譜に連なる作家だと私は勝手にラベリングしている。いつか今泉力哉監督で映画化希望。ただ、新しさという部分を考えるとどうなんだろうというのが本作についても言えたりします。

リアリズムに立脚した候補作が目立つ中、その中で異色を放つのは「家庭用安心坑夫」だろう。「(主人公の)小波はいまも実在する廃坑テーマパークに置かれた、坑夫姿のマネキン人形があなたの父親だと母に言い聞かされ育つが、やがて東京で結婚した彼女の日常とその生活圏いたるところに、その父ツトムが姿を現すようになって……。」作品紹介をそのまま引用してきたが、きっとこのあらすじでは何が何だか分からないのではないか。だがこれはまさに本作のあらすじで、要は話の筋を説明するのが難しいのだが、それはつまり本作が非常に「変な」話であることの証左でもあり、実際に読んでいる中で何が起こるのか全く分からないという点では他の作品を圧倒していた。途中までは本作が受賞作だと疑わなかったが、しかし読み終わってから、本作が私たちに与えてくれたのは得体のしれない読み心地だけかもしれないと思ったりもして、いやそれだけで十分だというのであればそれは否定しないのであるが、しかし選評ではその点が瑕疵として判断される可能性もありそうか。

さて、最後に残ったのは「異例の満場一致で文學界新人賞受賞」のうたい文句を引っさげた「N/A」。拒食症や生理不順を抱え同性と交際する女子高生を描いた作品、という表面的な筋だけを追えば、ありふれたマイノリティ小説なんだなとため息が出るかもしれないが、本作はそういった設定を(あえて)用いながら、弱者の生きづらさを声高に主張するのではなく、そういった生きづらさ自体を解体してしまうことに主眼を置いていて、そこが良いのである。たとえば長嶋有が新人賞の選評で指摘していたように、主人公が生理を厭う理由として、股から血が出るのが嫌なだけと記述され、それ以外の意味を持たせない。現象に対して実体のない意味づけを行わない、どこまでも実存主義的な態度が、記号にあふれた昨今の世界に突き刺さる。またさらに、そういった意味づけを拒否する主人公に対してラストに襲い掛かる「反撃」が作品としての強度を高めている。気遣いであふれる高校生たちの日常に関する描写もリアルさをもって立ち現れており、細部まで繊細に描かれている点も高評価。と、いいこと尽くしで書いてはいるが、実は件ののラストの描写が唐突すぎて些か雑に感じられる部分もあり、いやそれは雑に書くから良いのだということもあるだろうが、しかし足をすくわれるとしたらこの部分だろうか。

さて、以上のように各作品について触れ終わったところで、肝心の受賞作の予想で本記事の幕を閉じたい。本命は文壇に新しい価値観を持ち込んだ「N/A」、対抗は展開の前衛性に秀でた「家庭用安心坑夫」とする。発表は7月20日

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湯浅政明『犬王』

『犬王』を見てきた。最高だった。勢いで、人生捨てたもんじゃないなとツイートした。はた目からは病んだ人間のつぶやきにしか見えないかもしれないが、まあそういうわけではなくて、エンターテインメントの素晴らしさ、つまり、想像力には現実に美しい色を添える力があるのだと、改めて確信できた点に重きがある(のだが、変に邪推されないか不安でもある)。

本作の題材となった犬王は、室町時代に活躍したとされる能楽師であるが、作品は現存しておらず、いわば忘れられたポップスターとでも言えようか、彼がどういった舞を見せ、どのように人々を魅了してきたのか、その手掛かりは残滓すら残されていない。では、犬王や彼の舞を目にした人々の熱狂は、歴史に残されていないあれこれは、つまりなかったことと同義なのであろうか。そうではない、我々が思いを寄せることで、想像の力で手繰り寄せることで、彼らの生は無条件に肯定される。そういった鎮魂と想像こそが本作の根幹であり、私は本作を見終わった後にこんな小説の一説を思い出した。

そこらに立っとる石碑石仏墓石を見んかい、伝わらんでも人の思いが残る法もあると知らせとるがな。その思いを後世の人間が汲んでやれば、当人たちも報われるっちゅうもんやないか。(乗代雄介「皆のあらばしり」)

しかし、鎮魂や想像は別に改まったものである必要はない。湿っぽいものに留まる義理もない。先人たちの霊を思う祭りごとと同じように、派手に、面白く、愉快に踊り狂う景色を想像の世界に仮託するのもよいだろう。

琵琶法師・友魚がかき鳴らすエレキギターのような音色となり、犬王の舞はどこまでも現代的であり、舞台演出は明らかに現代技術が用いられており、そして観衆たちは夏フェスのように手を打ち鳴らして熱狂する。室町の世界に、そんな景色はなかったかもしれない。なかったかもしれないが、あったかもしれない。そんなことはどうでもよくて、ただただ風景が想像力の中で爆発する。それは、同じく京都を舞台と下森見登美彦太陽の塔」のクライマックス、ええんじゃないか騒動が共鳴する。

それから後に巻き起こった四条河原町ええじゃないか騒動について、正確に書くのは難しい。なぜなら、あまりにも大きく膨れ上がった怒涛のような騒ぎに巻き込まれて、私にも全体どういう騒ぎになっているのか分からなかったからである。ちょうど祇園祭のただ中にいるようなものだった。

四条河原町を中心に騒動は縦横に広がり、夜空へ「ええじゃないか」の声が響き渡って、クリスマスイブを吹き飛ばしてしまった。押し合いへしあいする人々が楽しそうに叫んでいた。夜の明かりに照らされた人々の顔は、ぼうっとして上気していた。(森見登美彦太陽の塔」)

現代も過去もない。現実も虚構もない。そこには、ただイメージがある。

私はこの映画を見て、良かったと思った。それは、いつかどこかで私が今日このとき思ったことを拾ってくれるかもしれないと思ったから。何百年後、私の体躯は朽ち果てて、歴史書のどこにも名前はないだろうが、それでも、私の思念だけは残存し続けて、あったかもしれない内面として誰かに想像されるかもしれない。それほど嬉しいことはない。世界は思ったよりも美しいのだと、それを知る。映画は世界の言葉を拾って、どこまで伸びていく。巨大樹の頂上から見渡す世界の風景は、思ったよりも悪くない見晴らしだ。

第166回芥川龍之介賞 受賞作予想

芥川賞候補作を全て読み終わったため、各作品の感想と受賞作の予想を書き記す。

最も身体に迫る気迫を感じたのは砂川文次「ブラックボックス」であった。読了後しばらく鉄アレイで後頭部をぶん殴られたようなショックからしばらく抜けだすことができなかった。いわゆる”社会の底辺”で生きる男が破滅していく様が描かれる物語。そのように記せば得てして社会派小説と受容されかねないが、本作はそれ以上にひとりの人間の生をひたすらに描かれており、社会という問題を語る以前に存在するひとりひとりの人間の生を現前させる。また、「保険とか扶養とか、見るだけで言葉の意味と音とが空中分解sるような単語をつかいこなせることが大人になったりちゃんとしたりすることなんだ」と思いながらも、勉学に勤しんでこなかった男にはそのような「ちゃんとした言葉」が理解することができず、結果としてそのことが彼に破滅をもたらした点も非常に印象的であった。一般的に社会とのつながりの象徴として描かれることの多い言葉によって、逆に社会と乖離させられる。想像の共同体である社会よりももっとリアルな現実を見せつけられる。淡々と書き進めらながらも肉体感を持った文体も物語の孕む焦燥感をドライブさせる。本作によって書き示された現実感は他作品を圧倒していた。

乗代雄介「皆のあらばしり」についてはどうだろうか。元来のファンである筆者は乗代氏の作品をこまなくチェックしており、もちろん本作も候補となる前に文芸誌上で読了していたが、こちらが芥川賞候補に選ばれたことを知ったときは少し驚いたとともに”もったいない”と思った。幻の歴史書を探求するなぞ解き要素も含んだ物語であるが、いかんせん”芥川賞っぽくない”。「最高の任務」や前作「旅する練習」(大傑作!)は”書くこと”をめぐる、純文学然とした内容であったが、本作は少しコンセプトアルバム的な立ち位置のように思えてしまったのだ。もちろん作品としては最高に面白いのであるが、限られたノミネート回数の一回として今作で候補作入りしてしまうのはもったいない気がしてならなかった。しかしながら改めて本作を読み返すと、ものごとを書き残すことへの切実な思いが作品全体を通底していることに気が付き、エンタメ性を備えた純文学としての一面を全く持って失っていないことに気が付く。「でもな、そこらに立っとる石碑石仏墓石を見んかい、伝わらんでも人の思いが残る法もあると知らせとるがな。その思いを後世の人間が汲んでやれば、当人たちも報われるっちゅうもんやないか」と語られるセリフが、負け戦に勤しむ私たちの光となって眩しい。読書メーターに投稿した内容をそのまま転載する。

ほとんどの人々が気に掛けることもないだろうが確かに存在した歴史的人物の残した書物をめぐる物語。何かを知ろうとすることは、その何かや誰かが精いっぱいに伝えようとした何かに真摯に耳を傾けるということである。即時的に伝わらないことでも、思いだけは残存し、いつか誰かに伝わる可能性を内包し続ける。その連鎖への信奉こそが文学の核なのかもしれない。知ること、学ぶことの愉悦と興奮を味わえる一冊。

最も大きな文学的野望を感じたのは島口大樹「オン・ザ・プラネット」であった。デビュー作「鳥がぼくらは祈り、」で全く新しい文体をお披露目した新進気鋭の若手作家による第二作は、記憶や時間といった人間の根本に迫る哲学的思弁を転がしながら鳥取砂丘を目指す四人組を描いた青春ロードノベル(?)。思いだす事などに対する島口氏のまなざしは滝口悠生にも通ずるものがあり非常に興味深い。また、旅という要素によって、観念に終始する虚構的な作品に陥らずに身体性や現実性を確保している点も素晴らしい。今後の作品もずっと追いかけていきたい才能であるし、初ノミネートから一気に受賞する可能性も十分に秘めていると考える。

九段理江「Schoolgirl」太宰治「女生徒」を題材とした作品であり、かつ、同作のサンプリングとも云うべき文体やモチーフによって構成されている。かさぶたを容赦なく剥がして傷口に指を突っ込むような痛々しさをしっかりと書ききれる作家だと評価したが、母娘の寄り添う過程にもう少し筆を割いても良かったのではないかと思われる。とはいえ、こちらも今後注目していきたい作家であることに間違いはない。

最後に、石田夏穂「我が友、スミス」。題名からはまったくわからないのだが、まさかの筋トレ小説。身体性の表現という部分では候補作の中で一番であったと思われる。また、その最大の特徴はブログ記事のようなひょうきんな文体にあると思われるが、それは逆に安っぽさを演出してしまっている感もある。内容としては非常に興味深く読めた。

以上をまとめて受賞作を予想する。私の中での評価は砂川文次「ブラックボックス」が最も高かった。三度目のノミネートということも追い風になるのではないか。また乗代雄介「皆のあらばしり」島口大樹「オン・ザ・プラネット」の受賞も十分考えられ、今回は上記三作のうち二作品の同時受賞になるのではないか。組み合わせを一つに決めるのであれば、砂川文次・乗代雄介の二名同時受賞を筆者の受賞予想とすることにする。

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2021年12月31日の日記

晦日。犯罪的な寒さ。実家に帰るかどうか迷った挙句、3時間の大作ということで後回しにしていた『ドライブ・マイ・カー』を観るために吉祥寺に行くことにした。JR吉祥寺駅駅直結のアトレを通って、北口の平和通り(調べたらそういう名前らしい)を歩いてパルコへと向かう。寒い。地下二階のアップリンク吉祥寺で半券を購入。時計を見ると、いや、スマホを見ると、12時を少し過ぎたところ。上映自体は15時からなので時間がある。だいぶ早めに到着したのには、というよりオンライン決済をせずに現地購入を選んだのには理由があって、なんと年末はメンテナンスでオンライン決済ができないらしく、早めにやってきた。時間つぶしに街をめぐることにする。地下一階のディスクユニオンにはたくさん人がいてガンガンに音楽を流していた。ミュージックマガジン2月号を立ち見。2021年ベストアルバム、J-pop部門で上白石萌音『あの歌』が選ばれていて嬉しかった。本当に良いカバーばかりです*1

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続いてごはんを食べようとパルコを出て、コピエの方に歩いていく。商店街には大量の人がいてちょっとうんざり。寒空の下、大みそかの街は新年の買い出しに勤しむ人々の活気で満たされていて、その中でひとり背中を丸めて歩く自分の姿が何だか情けなくなる。ラーメンでも食べようと街をうろうろするが青葉もぶぶかもどこもかしこも混んでいて、寒空の下で行列に並ぶのは考えるだけで辟易するので、吉野家に立ち入る。年末に牛丼チェーンに迷い込む哀れな子羊も自分一人であろうと思っていたが、案外に席はいっぱいで、独り身の男たちや家族連れでにぎわっていた。牛丼を食べようと心に決めて入店したはずだったが、牛すき鍋ごぜんが余りにあったかさそうだったので浮気してまった。味付けが異様に甘ったるい。吉野家は全体的に味付けが濃い気がする。しかし牛丼はチェーンの中で一番おいしいはずだ。牛丼チェーンはずっと松屋派なのだが、これは実家や高校の近くにあったのが松屋だったからという理由しかない。松屋の本領は何といっても味噌汁がタダでついてくるという点にあるが、この歳にもなるとあれはただの食塩水にしか感じなくなっている。海外旅行に出かけて暫くすると、ああ松屋の味噌汁でもいいから出汁の利いたものを口にしたい、となりがちだったが。まあそんなことはどうでもよいのだが、寒暖差でくしゃみが止まらない。マスクで全て受け止めるのだが、我ながらきったねえってなる。食べ終わってスマホを見ると13時くらい。アップリンクに戻って、待合スペースのベンチに座る。ずいぶん前に古本屋で買ったままになっていた『ニッポンの海外旅行』という新書を読んでいたのだが、思っていたよりずっと良い出来であった。読書メーターに投稿した感想をそのまま引用する。

我が国における海外旅行の受容のされ方について、文化・経済の両面からその推移を辿る良書。印象的だった点を紹介。①近代以降の日本の観光文化は、江戸時代の「お伊勢参り」から陸続きであるゆえに、大義名分を要する団体旅行が主であった(P41)。② 1960年代以降の海外旅行においては一般的に「歩く」という社会的行為によってその土地の地理や都市構造に自らの認識を合わせていくことに価値が置かれたが(p79)、90年代以降スケルトン・ツアー(短期旅行)が主流になるにつれて7歩く」行為が失われてきている。

上記の感想では漏れているが、「地球の歩き方」の歴史みたいなことも触れられていて面白かった。多少なりとも海外旅行をしてきた人間としては、なんどもお世話になった愛着深い本であるが、その成り立ちみたいなことに思いを馳せたことはなかった。コロナでシリーズの存続も危ぶまれているが、東京版を出したり、いろいろなテーマで「旅の図鑑シリーズ」なるものを刊行していたりして、そのしたたかさには恐れ入る。先日の「アメトーーク!本屋で読書芸人」でカズレーザーが紹介していた(らしい)『世界のすごい巨像』はとってもおすすめです。

さて令和3年の大晦日に話を戻そう。しばらく読書を続けていたが、背もたれのないタイプのベンチであったため、私の体のあちこちが限界に達していた。肩がこる。背中が痛いなどなど。これだったら小銭をケチらずにカフェでも入ってしまった方がよかったなと後悔する。この歳になってもそんなことばかりで、根っからの貧乏性だと思う。直ることはあるのだろうか。肝心の映画『ドライブ・マイ・カー』について。良いと思えるシーンも多かったが(特に高槻と対峙するシーンで三浦透子がミラーをちらっと確認するところ)、理解しきれない部分が多くて消化不良であった。おそらくなのだが、キリスト教的な価値観や倫理観を身に着けておくともう少し理解ができる気がしたので、いくつか解説を漁ってみようと思う。本質から少し外れるが、舞台として使われた瀬戸内の離島でのショットはとても良かった。調べたら呉市の御手洗という地域がロケ地らしい。いつか行ってみたい。

吉祥寺を去って最寄り駅に戻ったのは19時前。年越しそば代わりにラーメンでも食べて帰ろうかと思ったがどこも既にのれんを下ろしていた。そうだよな。セブンイレブンで冷凍食品のマーボーナスを買って帰路につく。しかしまあ、本当に寒い。凍えるほどに。いつかきっとひとり寂しく日の暮れた道を歩いた2021年の大みそかをいつか思い出すこともあるんだろうな、なんて、無理やりにでもこの寂しさに意味があるように思うようにしてみると案外にそれっぽい雰囲気にはなる。家について、シャワーを浴びて、ごはんを食べて、テレビもつけずに、ふったび読書していたら、なぜだか左のひとさしゆびが刃物でぱっくり切られて肉が割けるイメージが頭の中でとめどなく溢れてくる。なにを暗示しているのでもないだろう、この無為に痛いだけのイメージを抱えて、私の2021年は過ぎていった。

*1:特におすすめしたいのは布施明君は薔薇より美しい」である。その他に個人的によく聴いた今年のアルバムは、ミツメ『Ⅵ』haruka nakamura『nujabes PRAY Reflections』安部勇磨『ファンタジア』羊文学『you love』Homecomings『Moving Days』あたりです。楽曲単位では先日記事を出しております。