BEST BOOKS 2018

対象は2018年に刊行された単行本および文芸誌に掲載された文章。

 

20. 古川真人『窓』

新潮 2018年 07 月号

新潮 2018年 07 月号

 

19.  畑野智美『水槽の中』

水槽の中

水槽の中

 

18.岩井圭也『永遠についての証明』

永遠についての証明

永遠についての証明

 

17. 古市憲寿『平成くん、さようなら』

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら

 

16. 町屋良平『1R1分34秒』

1R1分34秒

1R1分34秒

 

 15. 多和田葉子『胡蝶、カリフォルニアに舞う』

文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 

 14. 村田沙耶香『地球星人』

地球星人

地球星人

 

 13. F『真夜中乙女戦争』

真夜中乙女戦争

真夜中乙女戦争

 

 12. 武田綾乃『青い春を数えて』

青い春を数えて

青い春を数えて

 

 11. 久保寺健彦『青少年のための小説入門』

青少年のための小説入門 (単行本)

青少年のための小説入門 (単行本)

 

 10. 石井遊佳『象牛』

新潮 2018年 10 月号 [雑誌]

新潮 2018年 10 月号 [雑誌]

 

 9. 鴻池留衣『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』

ジャップ・ン・ロール・ヒーロー

ジャップ・ン・ロール・ヒーロー

 

8. 村上春樹『三つの短い話』 

文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 

7. 角幡唯助『極夜行』

極夜行

極夜行

 

 6. 高橋弘希送り火

送り火

送り火

 

 5. 国分拓『ノモレ』

ノモレ

ノモレ

 

 4. 平野啓一郎『ある男』

ある男

ある男

 

 3. 町屋良平『しき』

しき

しき

 

 2. 武田綾乃『その日、朱音は空を飛んだ』

その日、朱音は空を飛んだ

その日、朱音は空を飛んだ

 

1. 森見登美彦『熱帯』

熱帯

熱帯

 

 

『熱帯』現実の存在を忘れさせるほどのイメージの洪水。もともと森見氏のファンであるということを差し引いてもその熱量は圧倒的であった。武田綾乃、町屋良平という次代を担う作家に出会えたことも僥倖。完成度では『ある男』が群を抜いていただろうか。芥川賞受賞作『送り火』はラストの波乱が死ぬまで胸に残ると確信。そして『ノモレ』『極夜行』といった優れたノンフィクション作品には読書の幅を広げてもらえた。本年の潮流のようなものにまで触れられれば良かったが時間がないので割愛。来年は床が抜けるほどの本を浴びたい。

森見登美彦『熱帯』

「重い、真摯なものを避け、斜めに書く姿勢をよしとしている作風が鼻につく」と難癖をつけられてからはや12年。時は満ち、ついにリベンジの時。森見登美彦の新作『熱帯』が満を持して直木賞へと突き進む。
熱帯
君はもう読んだであろうか。この傑作を。

この本を最後まで読んだ人はいない

謎の小説「熱帯」。その存在を知る者は、皆決まって結末まで辿りつけなかったと語る。なぜ人々は読み終えることができないのか。誰が何のために書いたのか。そもそもそれは実在するのか。『熱帯』は、そんな一冊の本の謎を巡るお話だ。
ところで森見登美彦といえば妄想である。『太陽の塔』に始まり『四畳半神話大系』も『有頂天家族』も全て、現実からちょっとずれた非現実の世界を立ち表すことによってある意味マジックリアリズム的な浮遊感を紡ぎ出す。これが登美彦氏の策略である。
そのような妄想が大きな形をとって結晶した作品、それが本作である。妄想が現実を飲み込んでいく。それは、『聖なる怠け者の冒険』『夜行』といった近年の作品でも目指したものの終着点であるとも言える。その意味で、本作はまさに大団円である。

さてさて、本記事冒頭の一文に話を移そうか。これは『夜は短し、歩けよ乙女』に対する直木賞選考委員故渡辺淳一の言葉である。なるほど渡辺氏は、直木賞には「文学的重み」が必要であり、森見作品はそれに達していないと考えたようである。私はそもそも「文学的重み」が氏の作品に欠けているとは全く思わないが*1、確かに、一見すると森見登美彦の物語は酷く軽薄なものに勘違いされがちである。それは氏のこれまでの作品が、セックスや死という重さ、すなわち生きるということに焦点を当ててこなかったからだと考える。
しかし『熱帯』は、そういった批判の一切を完封する。だってこの小説、人が生きるということの意味を描いた実存主義文学だから。
人は語ることでしか自分の存在を確認できない。しかし、その自分の存在はそとそも誰かの語りの中で生かされた存在なのかもしれない。この決定論的諦念を前に人がいかに生きていくか。この小説は、語り続けることを答えとして示してくれた。その正誤は置いておいて、もはやこの小説を軽薄な大衆文学と呼ぶことはできないだろう。
このような「文学的重さ」を氏はついに手に入れた。もはや敵なしである。直木賞は頂いたも同然。そんな迷惑極まりないフラグを立てて、本稿は幕を下ろそう。

*1:特に『太陽の塔』を読んでほしい。残念ながら、表面的なセックスや死をバンバン登場させることで雰囲気だけでも文学を擬態しようとする「文学もどき」で世の中は溢れているのである。ああ、ムカつく。お前らのそのくそつまらん雰囲気だけのインスタ映え見越したような自分語りなんかよりも、冴えない大学生が冴えない生活送るだけの『太陽の塔』の方が100倍ロックで純文学なんじゃボケと私は声だかに叫びたい。

石田祐康『ペンギン・ハイウェイ』


 

ぼくはそのふしぎさをノートに書こうとしたけれど、そういうふしぎさを感じたのはノートを書くようになってから初めてのことだったから、うまく書くことができなかった。ぼくは「お姉さんの顔、うれしさ、遺伝子、カンペキ」とだけメモを残した。

 夏休み。今では光の速さで過ぎ去ってしまうこの季節を、幼いころの僕たちは一生のような長さに感じたのだろう。家を飛び出し、町や山に繰り出す少年たちにとって、この世界は無限に広がる永遠そのものだ。そんな冒険のさなかには、かならずしも知っていることや共感できるものばかりが転がっているわけではない。訳のわからない不気味なもの。それを<謎>と呼ぶ。そんな経験を通して、この世界の全てを理解することはかなわないということに彼らは気づくのである。

この『ペンギン・ハイウェイ』という映画は、「お姉さん」という存在の謎をめぐる少年たちの冒険譚である。主人公のアオヤマくんはある意味での天才少年であり、彼にかかれば世の中の大抵のことは理解できる。しかしそんな科学の子であってもどうしても解けない<謎>がある。それが町に現われたペンギンとお姉さんについてである。この記事の冒頭の引用は、そのお姉さんについてのアオヤマくんのつぶやきだ。理路整然とノートに書き記す天才少年が、「お姉さんの顔、うれしさ、遺伝子、カンペキ」というたどたどしい文章でしか表現できない<謎>。それは、刹那の輝きを見せながらうまく掬うことのできない砂金のような感情。物語の最後、その得体のしれない何かを忘れることなく大事にしようとするアオヤマくんの姿に僕らは胸を打つのだ。

正直この物語はすっきりと終わらない。子どもには難しすぎる映画だという意見もあるだろう。確かに、子どもが全ての内容を理解することは不可能だろう。僕もできなかった。そうかもしれないが、ではこの映画を見た子どもたちの心に何も残らないかと言えば、そんなことはないはずだ。思い出してほしい。僕らが「大人帝国」や「ミュウツーの逆襲」を見たときに感じたあの気持ちを。それを無駄だというのならば、ぼくはそいつの顔を幾度となく殴りつけてやろう*1。そんなものを持ち出さずとも、キャッチーでスーパーにポップなシーンが随所に盛り込まれているから。特に、街をペンギンが闊歩するオープニング部分と、クライマックスのペンギン飛行。大人も子どもも、ポケモンの映画を見るくらいの気持ちで観ればいいのだ。

贅沢を言えば、あと少し放映時間を縮めることができれば文句なしの最高傑作だったと思う。しかしそれがあったとしても、傑作には変わりないのです。これを見なければ平成最後の夏を過ごしたということはできない。そう断言したい。

 

以下はネタバレ有りの考察になります。

 

 

 

 

 

 

 

実はこの映画、アオヤマくんのに注目すると展開がわかりやすくなる。まず彼の歯は―もともとは乳歯であるが―ペンギンが街に現われた段階でぐらぐらし始める。そして、お姉さんがコーラ缶を投げるタイミングで、すなわちお姉さんがいよいよ<謎>そのものであるとわかった瞬間に、その乳歯は抜かれる。その後、もちろん乳歯の抜けた後は何もない<抜け>になるわけだ。この<抜け>を、彼が舌で触る場面が幾度か移されるが、これはすべてお姉さんに会えていなかったりと少年が不安を抱えている場面なのである。すなわち、いままでそこにあったはずの歯の不在を確かめる動作が、少年の不安定な心情を象徴しているのである。そして物語の最後、お姉さんが去ってからしばらく経過した場面では、彼の歯はしっかりと生えそろっている。これは、お姉さんの不在という不安状態から脱したことを意味する。

以上をまとめてみよう。初め乳歯=赤ん坊であった少年が、ペンギンの出現により今までの自分の土台が揺らぐ。もはや赤ん坊のままでいることのできなくなった少年は、お姉さんという<謎>に導かれて冒険に出る。これまであった歯がないことに不安を抱えながら(<抜け>)。そのような不安を克服し、冒険の果てに<謎>の核心まで迫った少年は、お姉さんとの決別を経て、大人(永久歯の生え代わり)になるのだ。

もうひとつ、少年の成長を象徴する場面がある。それは、最後の独白。

ぼくは世界の果てに向かって、たいへん速く走るだろう。みんなびっくりして、とても追いつけないぐらいの速さで走るつもりだ。世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである。その道をたどっていけば、もう一度お姉さんに会うことができるとぼくは信じるものだ。これは仮説ではない。個人的な信念である。

科学の子であった少年が、ことばの範疇から抜け出して、語りえぬ感情の大切さを肝に銘ずる。科学から信念へ。それは一見幼稚への退化に見えるかもしれないが、少年にとっての大きな一歩であった。

*1:妄想の中で

新しいという不気味の快楽 ―鴻池留衣「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」を読んで―

新潮 2018年 09 月号

 

分かりやすいということは心地よい。それは僕らの存在を一見無条件に肯定してくれるから。良いものが悪いものをうち倒すという明快なストーリーに世界の溜飲が下がる。同じ感情を共有するという安楽に包まれて、僕らは自分が世界に生きていることを再度確認する。それが、僕らが物語を求めるひとつの動機であることは否定できない。

しかし、物語にはもうひとつの終着点がある。それはまったく真逆で、つまり全く何を言っているのか分からないという瞬間、その刹那を僕らは首を長くして待ち焦がれる。

新しい何かを前にすると、不気味という感情が溢れ出す。それはたしかに、心の平穏を溶かす危ない何かだ。まるでエイリアン。そんな存在、消え去ってしまえとあなたは願う。慣れ親しんだストーリーに囲まれていたいと。だけれども、それはオモシロいのだろうか。分かりやすさだけが支配する世界なんて。

不気味の向うに行ってみたい。その欲求が、僕らを物語に向かわせる。新しい何かを歌った物語に。

  

ここに鴻池留衣という作家がいる。彼もまた、不気味の彼方側を目指した「変態」なだ。今回新潮に掲載された「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」という物語。そもそもこれは小説なのだろうか。wikipediaの引用(という設定)から始まった「僕」という人物にまつわる文章は、気がついた時には「僕」をめぐる一人称小説へと。文章の構造がいつの間にか変わってしまう。そんなものを読んでも平穏な快楽なんて得られないだろう。だけれども、僕はそこに不気味な快楽を覚えた。それは、何となく新しい。声高に革命を宣言する物語ではない。だけれども、新しさが焦げ臭く薫る。そのにおいに誘われて、多くの人間が彼方に落ちていく。

 

おそらく世界のほとんどが、この小説の存在すら知らずに死んでいく。それは、この小説がすべてに理解されることを拒むから。しかし、彼はすべてに理解されないことも拒んでいる。1億人に1人でも、この不気味な美に脚を掬われる人間がいれば、彼の勝ちだ。そしてそこから、新たな美の感触が世界に生まれる。不気味な美の感触が。

 

 

 

鄭義信『焼肉ドラゴン』


「言わなければ分からないじゃないか」と言う人がいる。コミュニケーションができなければ人間として価値がないのだとでも言うように。でも、本当の痛みは言葉にはなれない。はっきりと言える人間に、この苦しみが分かるのだろうか。

この『焼肉ドラゴン』という映画では、想いが言葉にならない家族の生き様を描かれる。壮絶ないじめに会い言葉がしゃべれなくなる時男はもちろん、在日一世の父ちゃん母ちゃんが話す日本語はたどたどしいし、逆に日本で育ったその子供たちは韓国語をうまく話せない。みんな、ある意味でどこか言葉に不器用だ。その代わりに彼らは、大きな感情にぶつかたとき、叫ぶ。その姿は痛々しいけれども、それでも彼らは生きていかなければならない。

人の苦しみを分かりたいという人はいるけれども、その本当にグロテスクな部分まで付き合ってくれる人間は少ない。彼らは往々として、分かり合える美しさを求めているだけなのだ。人は分かり合えないし、汚いし、目も当てられない。きれいごとではすまされない黒い部分をこの映画は書ききっている。叫ぶことしかできなくなった時男が草むらで暴れまわるシーンを長々と映すシーンがそれをよくあらわしている。痛みが、この映画には詰まっている。

願わくばこの映画が政治だとか歴史だとかそういった大きな枠組みで語られることのないようにと思う。ひとつの家族が、どのように生きていきたのか。それだけを見つめてほしいのである。

平野啓一郎「ある男」

文學界2018年6月号

「自分とは誰なのか」という問題に一度は突き当たったことがあるのではないか。今まさにここにいる自分と、一秒前にここにいた自分が同じ人間だとだれが断言できるのだろう。この世界には無数の自分がいて、その時々で違う自分が顔を出すのかもしれない。このように考えてしまえば、自我の確立というものは幻想の彼方に消えていく。そういった自己分離が起こらないように、名前があてがわれる。名前を背負ったものは、その名前が辿った過去も背負うことになる。ここに、名前と過去を与えられた一人の自分というものが存立する。それでは、名前を失った人間はどうなるのだろうか。名前と同時に、その人間の過去まで消えてしまうのか。

この作品で問題になるのは、まさしくそのことである。名前を消し去ることで、これまでの自分をなかったことにしようとする男。他人の名前を語ることで、自分ではない誰かになろうとする男。その男の存在は、過去とか愛とか絆とかそういったものから全く自由になれるのだろうか。何物でもない「ある男」としての存在。それは空虚なものか、あるいは完全なる自由か。

崎山蒼志という怪物の衝撃



崎山蒼志という怪物の才能に踏みつぶされてしまった。AbemaTV「日村がゆく!」で披露されたその楽曲の素晴らしさに魅せられた人は多いのでは。向井秀徳を彷彿とさせる存在感。不安定なボーカルと疾走するそのギターは、自転車でぐっと冬の坂を下るときのような焦燥感を薫らせる。それなのに本人は自転車に乗れないというのも最高だ。そして歌詞。でたらめな輩どもが使いたがるような大げさな漢語も難しげな語彙も一切なしに、ほとんど簡単な和語だけで作り上げたことばの世界が美しくきらめく。

冬 雪 ぬれて 溶ける

君と夜と春 走る君の汗が夏へ 急ぎだす

こんな歌詞を中学一年で作れるとは人生何週目なんだと問いただしたくなる。この言語感覚は審査員席に座るスカート澤部渡にも通じるところがあるような。なによりも、ルックスが信頼できる。これが量産型ロキノン系野郎みたいな見た目だったらすべてが台無しなのです。今後どのように飛び立っていくのかそれはわからないけれども、今すぐ音源が欲しいと思うのは一人だけではないはずだ。