今泉力哉『街の上で』



愛おしい映画だ。

下北沢の街で繰り広げられるこの物語は、いってみれば大したことは起こらない。若葉竜也演じる男と彼を取り巻く四人の女性が繰り広げる群像劇なのだが、そこでは劇的な演出や会話が徹底的に排除されている。どもり、つっかえ、聞き逃し、聞き返し、謎の間の連続で、それゆえに映画の中にどこかぎこちない気まずさが流れることもある。しかしそのことが映画に圧倒的なリアリティ強度を与えている。よどみなく自分の気持ちを吐露する作られた登場人物は皆無であり、この世のどこかに確かに存在する人々の生きざまを垣間見ているようで、ほほえましく優しい気持ちになれる。

ここで描かれているのはあなたの身近な日常と大して変わらない。あるカップルが別れてから暫くのあれこれが描かれているだけだ。何年後かに振り替えれば、いろいろあったよねの一言で片づけられてしまうようなあれこれだけだ。でも、そんなあれこれに近寄ってみると、案外とてもきれいじゃんと気づくことがある。だれも描くことがなければなかったことにされてしまうほど些末で、でも確かにそこにあったはずの出来事。そんないろいろの美しさに気が付かせてくれる、最高の映画だ。

 

地図に穿つ

これまで訪れてきた場所を余すことなくグーグルマップに登録しようと思っている。ひとりで勝手に進めている極めて個人的なプロジェクトだ。誰に見せるわけでもない。何かに役立つわけでもないだろう。ただ個人的な記憶の外付けハードディスクとして、電子地図を活用しようとしているだけだ。自分と少しでもかかわりを持ってもらった場所を忘れてしまうのが悲しいから、いつまでも覚えていたいから、こんなことをしている。

いままでたくさんの土地を訪れた。日本国内はもちろんのこと、学生時代はバックパッカー気取りで少なくない国に降り立ってきた。当時から訪れた場所をグーグルマップに登録しておけば面倒はなかったのだが、Maps.meなどの別の地図アプリを使っていたり、そもそも地図にいちいち記録をつけていたなかったりして、訪れた国や街の単位でアバウトにお気に入りマークをつけていただけだった。しかしそれではもったいないと思い、この機会にすべて更新してみることにあした。

そんな作業をしている中で、タイ・バンコクを訪問した際に泊まった宿の場所が分からなくて、いろいろと手掛かりを探っている。ただ、その宿に関しては当時の写真はない。仕方ないから、記憶の海に潜ってみることにした。

あの時の自分は大学生で、春休みを使って友人と二人で一か月のあいだ東南アジアを回っていた。ベトナムホーチミン(サイゴン)から入り、カンボジアアンコールワットを見て、そこから長距離バスでバンコクに入ったのだ。世界中から観光客の集まるバックパッカーの聖地・カオサン通りに着いたのは、夜の7時か8時ごろだったとおもう。半日車に揺られて我々は疲弊していた。とにかく腹が空いていたので、宿を探すよりも先に屋台でパッタイを頬張った。日本円で100円くらいだったそのタイ風やきそばは驚くほど美味で、それから7年たった今でもあの時の感覚を覚えている。

我々が舌鼓を打っていると、日本人バックパッカーを自称する若い男に話しかけられた。彼の泊まっている宿が安くていい感じなので、案内してあげるとのことだ。我々は警戒しながらも、疲れ切っていたので、彼についていくことにした。

案内された宿は確かに安かった。たしか一泊3ドルとかだったと思う。話に嘘はないのだが、しかし想像をはるかに超える不潔さであった。単純に汚いということに加えて、陽当たりが悪くじめじめしているし、電球が切れかかっているのかどの部屋も薄暗い。おまけに6人1部屋のドミトリーでは、そこに何年も住み着いているような”沈没者”がたくさんいて、それもたちの悪い沈没の仕方をしているように見えて、人生をあきらめた人々が醸し出す独特な”死臭”が部屋を包んでいた。

そんな嫌な感じしか残っていない宿ではあるが、そこに泊まったことは事実であり、なんとか場所を思い出そうとするが、カオサン通りのはずれの道をいった気がする程度の情報しか浮上してこない。記憶の中の行動と地図を突き合わせてみも全く分からないので、インターネット検索に頼ることにした。ただ、「カオサン通り 安宿」みたいに検索しても、出てくるページが扱うのは小ぎれいで清潔かつ明るい印象を与えるような宿の写真ばかりだ。あたりまえだ。あんな宿をお勧めするページがあったとしたら無茶苦茶だ。ただ彼らは彼らの最善の選択として、あのどうしようもない宿を掲載していないだけだ。だから、その宿が見つからないことに対して、何の文句も垂れるべきではない。それはわかっているが、いま見つけ出さなければ生涯あの宿の場所を思い出すこともないのだろうと思うと少し寂いので、いろいろな検索をかけて粘ってみたら、「カオサン通り 日本人宿 汚い」で検索したら出てきた。

A.T. Guest House ― それが、探し求めていた劣悪宿の名前であった。調べると今の今まで営業を続けているようだ。さっそくグーグルマップにお気に入り登録して、ストリートビューで目の前の道を覗いてみると、記憶がよみがえってきた。メインストリートからとんでもなく狭い道を通り抜けてこの宿にたどり着いたことや、目の前の狭い通りに並んだ屋台で朝食のヌードルを食べたことを。この場所のストリートビューにたどり着いていなかったら、一向に思い出すこともなかった記憶の断片に出会うことができて、なんだかうれしかった。あの時、自分は確かにこの場所にいた。その感覚を、忘れてはいけない。

しんにょう(あるいはしんにゅう)

幼いころの記憶に残るしんにょう(あるいはしんにゅう)は辶であったけれど、いまモニターに映し出される「辻」のしんにょう(あるいはしんにゅう)は何度目を凝らしても辶だった。ふたつも点が乗っている。おかしな形に困惑しながら、しかしこれはつい今しがた自分がキーボードで打ち込んだことにより生み出した文字であるという事実に直面する。PCが表示する文字に誤りはないはずであり、そうすると、先ほどまで私の記憶だと思っていたものが私の記憶ではなかったのかもしれない。いや、騙されるな。私には確かな記憶がある。

小学生の僕は、かび臭い教室の片隅で、「道」という文字を何度も書き写している。その文字はいささか見るに堪えないほどの汚さだが、何とか「道」であると認識できる程度の形は残している。30回同じ字を書かないといけないので、途中で僕はずるをし始めるわけだが、まあそれはいい。とにかく、ほらみたことか、辶がやはり正しいのだ。しかしなぜこんなたわいもない場面を記憶しているのだろうと不思議に思っていると、おいと呼ぶ声がしたので頭を上げる。そこに立っている少年は、僕がずるをしているのを見抜いたようだった。僕は瞬時にノートを覆うようにして、なに、と答えた。

「お前、をぜんぶ先に書いて、その後で首を書こうとしているだろ」

「してないよ」

実際には彼の言う通りで、僕のノートには一面の辶が書き連ねられていた。この方が効率的だと思ってやってしまったわけだが、僕は正直に答えられなかった。いま思い返せば、別にそのくらいのことがばれてもなんでもないはずだったが、当時の僕にはそのズルがとても大きな罪であるように思えてならなかったのだ。

「いや、俺は見たよ。先生にいっちゃおう」

僕は狼狽した。そして、必ずこいつを葬ってやると強い殺意を覚えるやいなや、辶で埋め尽くされたページを彼に見せつけてやった。すると彼は、辶辶辶辶辶辶辶辶辶辶辶辶が辶辶辶辶辶とつらなる辶辶辶辶の辶でゲシュタルト崩壊を起こして別世界に飛んで行った。ざまあみろと漢字ノートを開きなおして「道」を書き始めると、辶が崖に立つ一人の人間を表しているように思えてくる。断崖の上で立ち尽くす僕の眼下には、深い森の蒼がどこまでも続いている。風が木の葉を揺らしすざわざわと野生動物たちの鳴き声が混合して不気味な気分だ。その森の中から、先ほど吹き飛んだ少年の声がする。僕は彼が哀れになったので、おーいと声を出して居場所を伝えた。すると「おーい」の声は実態となって彼の方へと飛んでいき、彼を乗せて崖の上へと戻ってきた。

「びっくりしたじゃないか」

「お前が悪いんだぞ」助けてやったのに不遜な態度をとる彼に僕は苛ついていた。

「しかもお前、この辶が間違ってるぞ」

教室に戻って彼がノートの一字を指して言う。確かにそれは辶ではなく辶となっていて点が一つ多い。これには僕も反省の色を示すしかなかった。

「教えてくれてありがとう。このまま提出していたら大変なことになってた」

素直に感謝の言葉を伝えて彼を見ると、彼はそこにはおらず、ただ辶の白いオブジェクトが屹立していた。文字が言葉をもって何かを訴えることはできないが、僕には、辶が哀愁の気持ちを抱いていることが分かった。僕には彼のさみしさを理解することができたから、彼のために涙を流すことにした。すると、目の前に据えられた辶が強い光を放って、空に浮いたかと思うと、教室の天井を突き破って空高く飛び立っていった。

この時以来、僕が辶の形を意識したことはなかった。

光の粒

微かな温もりをはらみ始めた潮風が自由気ままに荒ぶる二月の砂浜は、どこまで行っても誰もいなくて、いつか見たあの景色に似ている。寄せては返す波のごとく、心に去来する寂しさが心地よくなるころには、生きる意味さえも超えていく。

真っ白な砂浜に横たわる君が死んでいく。君は、うつろな目をして遠く見つめながら、すべてが海であった時のことを思うのだろう。初めて光を見た刹那に流したうれしさの涙を懐くのだろう。

僕らは君の大きな体が朽ちてしまう日を待っている。じっくりと涙に溶けていく日を待っている。君と過ごした日々が霞の彼方に見えなくなる日を待っている。それでも、触れては消えてしまうような脆さで、君は息をし続けるのだ。

君はときおり悲しみを嘶く。咆哮のようには響き渡らない諦めを心得ながら、吹き付ける風の声にかき消されない程度の力強さを保ちながら、目の前で消えていく

遠く沖の方で光の粒が跳ねる。水面に跳ね返った光はどうしてこんなに美しいのだろうか。死に行く君すら照らしていくすべての光が、ああ僕らの終わりを開くのだ。世界はいつも美しい。

君は海に戻そうとする合間に死んだ。ついに死んだ。僕は沖に船を漕いで、君のすべてを海に葬った。沖の海を間近に見るとと、光ってなんていなかった。どっぷりとした厚みを持った青黒さがのっぺりと広がっているだけだ。こんなに分厚い壁の下で眠る君を思って少し泣く。二月の風は、しっかりと冷たかった。

よくわからない

 

あるひ私は一大決心をして文庫本の中にもぐってやった。物語は思ったよりも深さが無くてがっくりしたけれど、横の世界はどこまでも続いていて胸が高鳴る。水中から浮き上がってくる言葉たちを吸って吐いていれば息はいつまでも持つようである。

ずっと泳いでいくと、水中に宙遊するとても大きな一軒家が目に入った。窓から老婆のような物体が手招きしているので、お言葉に甘えて(といっても彼女は一言も発していないのである。これが言葉の綾というものだろうか)玄関を強めにノックした。だれも出てこないからドアノブをつかんだら、鍵がかかっておらず、そのままドアを引いて中に入ることができた。

三和土でスニーカーを脱いでお邪魔すると、長い廊下がどこまでも続いていた。先は暗く、見通しは立たない。家の内は文字で満たされているから、先ほどまでとは比べ物にならないほどに呼吸が楽であるのだが、何者かが私のことをどこからか狙っているような気がして嫌な感じ。気を紛らわすためにポケットからiPodを取り出して何時もの音楽を聴きいることにした。しかし、イヤホンから流れてくる音楽が私の言葉を奪っていくのだろうか、次第に呼吸が苦しくなったので、iPodはあきらめてカバンにしまった。

いつまで行っても廊下が続いている。出口を見いだせない道は醜悪なので法律で禁止されているはずだが、この水中の一軒家まで法治が行き届いているのか分からなかった。

歩き続けているうちに、この道は絞首台へと続いていると気が付いた。むかし見た映画でこんなシーンがあったなと思いだした。そうか、私は死に値するのだと思ったら、涙が止まらなくなった。死ぬことすらできない無数の魂たちを私は知っている。

ついに絞首台が見えた。ああ、さよなら人類。いつか輪廻がめぐってきたら、またケーブルカーに乗りたいな。きれいにきれいに人生を踏みしめてみたい。感慨にふけりながら、私はいっぽいっぽ死へと近づいて行った。だけれども、私の体はいつまでたっても絞首台にたどり着けない。いつまで歩いても周りの景色が付いてきやがる。どうしたらよいのだろうか。死ぬことも生きることもままならない。ひどいと思った。

その後も幾年か同じ状況に置かれ続けていたはずだが、いつのまにかびしょぬれで立ち尽くしている自分の姿に気が付いた。床には少しの水分を含んで文庫本が転がっていた。

 

撃たれなかった拳銃

 

チェーホフがこう言っている。物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ」

村上春樹1Q84』より

 

この言葉に出会って、私は一種の怒りを覚えた。意味があることがそんなに偉いのかと。意味のないものが物語から締め出されるのであれば、私のような、たいていの人生に何の影響も及ぼさないような人間は、物語の登場人物にすらなれないで死んでいく。そんなのさみしいではないか。私は憤怒で燃えていた。

燃え滾っていたら、引火して、街に燃え広がった。めっきり雨の降らない2月の東京は乾燥しきっていた。瞬く間に広がっていく光景が滑稽で、意味をすべて焼き払ってしまえばいいと思った。

 

誰かと誰かが一緒にいるのにも意味が必要なのだろうか。誰かがここにいることに意味が必要なのだろうか。撃たれなかった拳銃も美しいと思う。

 

想像力の限度

ずっと自分の中で燻り続けているモチーフがある。極夜の東京。そんなものを想像してみると楽しくて仕方がない。もともと、ceroの「orphans」という曲で歌われる白夜の街という設定がすごく素敵に思っていた。単純な思考であるが、では逆に極夜とはどういったものなのか。それも、東京という街が昼間を失ったらどうなってしまうのか、気になってしょうがない。

それで、そんなモチーフから何かを抽出して創作物を作り出してみようと考えた。掌編でもいいので、みじかい物語を紡ぎたい。そういった野望で文字を打ち続けてみた。しかし、いざ文字にしようとすると全くダメなのである。イメージはあっても、言葉として成立させることが困難極まりない。そうやって書き手としての自信や希望をどんどんと自信を失っていく。

不安の中を歩き回っていると、そもそも自分の中に確固としたイメージがあったのかも分からなくなってくる。そうか、自分には想像の才能すら備わっていないのだと絶望する。宮崎駿には猫バスが実際に見えるのだと何かの記事で読んだ気がする。欲しいのはそんな力だ。果たして今から手に入るものなのだろうか。

とにもかくにも、心のうちに蓄えた心象イメージを豊かにしなければならない。今までぼんやりと見てきたイメージの正体を、両の眼を見開いて見破りたい。そのために何をするべきなのか。常に考え、常に想像を膨らませること。創作の中だけではなく、現実においても。今見ている景色の裏に見たいものを具体的に想像すべし。冷蔵庫の裏から巨大な龍が現れたりして。