山田尚子『聲の形』 投げて、落ちて、拾われる
『リズと青い鳥』の興奮に便乗して、恥ずかしながら見視聴だった『聲の形』をTSUTAYAで借りてきた。
全体のモチーフをさりげない描写の一つ一つに投射していく丁寧さ、言葉の外への真摯なまなざし、観る人の感情を動かすエンターテインメント性。傑作である。途中何度か泣きそうになった。しかしながら、これが山田尚子監督の最高傑作かと問われれば、首をかしげざるを得ない、というのが全体的な感想である*1。兎にも角にも、心を動かされた作品である。どういった点が素晴らしかったのか、『リズ』との比較も交えながら綴ってみたい。なお、ここから先、ネタバレ有り。ただし『リズ』に関しては見ていない人もわかるようなものとなっております。『リズ』に関する考察はこちら。
伝わらないということ
「障がい」「いじめ」といったセンセーショナルな題材を取り扱っているが、この映画の主題は決してそこにはない。本当に撮りたかったのは、一見簡単に見える「伝える」という行為が実は如何に困難なものであるか、というところにある。硝子が必死に吐き出した「好き」という簡単な一言が、「月」と聞き間違えられるシーンが典型的だ*2。しかし、伝わらないということに直面するのは、「障がい者」である硝子だけではない。石田もまたその一人。言葉でうまく伝わらない感情を、彼は「投げる」という行為で届けようとする。気になっていた硝子に、石を投げる。ともだちだと呼びかける硝子のことばに、補聴器を投げることで拒絶の意を示す。高校時代に移っても、硝子と一緒に鯉にパンを投げることで、コミュニケーションを取ろうとする。
「言葉にならないことば」を不器用にも伝えようとする者たちへのまなざしは、いつも一緒にいながらも根本的には分かり合えないやるせなさを描いた『リズ』にも共通する。みぞれと希美には音楽ということばがあったように、石田は投げることで想いをことばにする。
落ちることの意味
この映画では、「落ちる」ことが執拗に繰り返される。これは、言葉が支配する「上」の世界と、言葉を失った硝子(や時に石田)のテリトリーである「下」の世界という二つの空間世界を背景としている*3。いじめられる側に回った石田は、水槽に「落とされる」ことで以後コミュニケーションが取れなくなるが、高校生になると、今度はノートを拾うために自分から川に「落ちる」。これは、梢子と同じ世界を生きようとする意志の表れでもある。事実、石田は硝子とコミュニケーションを図るために自ら手話を身に着けている。しかし、遊園地のシーンで、ジェットコースターが落下する直前の「やっぱりまだ怖いけどね」という佐原の言葉に不安を覚える。これは、「友達っぽい」感覚を取り戻し、上の世界に馴染んできた石田が、硝子のいる下の世界に再び落ちることへの恐怖が現出している*4。その不安を察した硝子は自らの身を投げる。落ちていく彼女を、石田が拾う。代わりに石田が落ちる。投げ出された硝子の全存在を拾い、下の世界へと落ちた石田の行為によって、二人のコミュニケーションは完成する。病院を抜け出した石田が硝子と再開するシーンで上空を翔ぶ飛行機は、「投げられた想いが落ちないこと」をあらわしているのだろう。
人の関係性を空間に投射するその手法は、『リズ』における希美とみぞれの距離感や、校舎内での位置関係にも見ることができる。何気ないワンシーンも大事にするその姿勢こそが山田監督の真骨頂であろう。
分かりやすさをめぐって
繰り返しになるが、この映画の主題は「伝わらないこと」にある。しかし一方で、この作品は感情の起伏箇所がとてもわかりやすい構成となっている。理不尽ないじめ、川合みきという胸糞悪い人物や、自殺未遂と主人公の重体からの復活といったわかりやすい装置を使って、受け手の感情を誘発している。そういったわかりやすい感情の動員は、決して悪いことではないと思う。しかし本作においては、分かり合えないことを題材にしながら、受け手が受け取るべき感情は非常に分かりやすくなっている、という矛盾を抱え込む結果となっている。そのわかりやすさこそが、この映画のエンターテインメント性を高めていることは確かだし、「リズ」において欠如している部分だということも否定できない。しかし、「リズ」で見られるような「受け取り方の揺らぎ」をこの映画に見ることはできない。そこが本作を胸を張って大傑作だとは言えない所以である*5。
山田尚子『リズと青い鳥』 互いに素の美しさ
どうやら、完璧な美しさに出会ってしまったらしい。
Homecomingsのエンディング目当てだった『リズと青い鳥』という映画にすっかりやられてしまった。京都の高校を舞台に、二人の少女の関係を描いた90分。自分には訪れることのなかった麗しき青春を前にひれ伏す。原作も知らなかったし、アニメ自体ほとんど見てこなかった非オタの自分(外見はオタクという突っ込みは無視します)ですが、一週間で二回観に行きました。人類はこんな素晴らしい物語を作ることができるのだという感動と、もはやこれ以上の物語を見ることはできないだろうという絶望が現在入り混じっておりますが、この特別な感情を多くの人に共感してほしいと思い、少しばかり筆を執ってみます(前半部分はネタバレなしです)。興味を持ったら、ぜひ劇場へ。
あらすじ。同じ吹奏楽部に所属する鎧塚みぞれと傘木希美は、高校最後のコンクールである童話をモチーフとした楽曲を演奏することになる。この「リズと青い鳥」という童話は、一人ぼっちで暮らす少女リズと、彼女の前に現れた青い鳥との別れの話だった。いつまでも希美と一緒にいたいと願うみぞれは、リズと青い鳥に自分たちの姿を重ね合わせながら、いつか来る別れの時の予感におびえ続ける。一方、屈託のない希美にはみぞれの不安は届かない。想いのすれ違いが、二人の関係に徐々に影を落としていく…
言葉にならない言葉たち
これは耳で観る映画だ。まずは冒頭の数分間、ひたすら二人が学校を歩くシーンで、ローファーが鳴らすコツンコツンという足音。鍵を回す音。窓を開ける音。服のすれる音。ページをめくる音。水槽のモーター音。演奏中の息遣い。もちろん、吹奏楽が演奏する楽曲の音もそうなのだけれども、普段見落としてしまうようなひとつひとつの音にこそ耳を傾けてほしい。そこには、言葉で表せなかったたくさんの想いが溶け込んでいるはずだ。耳を澄まして、一音一音を大切にしてほしい。決してポップコーンをバリボリ食いながら観てはいけないのである。
そして同時に、「しぐさ」に注目してもらいたい。台詞は少ない。ストレートに感情を吐露する言葉はほとんどない。それを埋め合わすたくさんの「しぐさ」。希美の隣を歩かずに後ろを歩くみぞれの視線。笑おうとするけれど、うまく笑えない希美の表情。髪の毛が触れそうで触れられない二人の距離感。想いは言葉にならず、青春は進んでいく。そんな想いは「しぐさ」に溶け込む。
「互いに素」な二人
序盤で突如現れる"disjoint"のカット。日本語で「互いに素」、公約数を持たない数の関係性。これはみぞれと希美、彼女たちの関係のメタファーだろう。いつも一緒にいる二人だけれども、その関係はなんだかぎこちない。みぞれが振り絞るように発する数少ない言葉も、希美に上手く伝わらない。たとえば、二人で過ごす朝練の時間に「うれしい」と漏らしたみぞれの想いも、希美には「リズと青い鳥」を演奏することが「うれしい」のだと理解されてしまう。また、一見自由気ままに喋っている希美も、大事なことには触れないように気を使っている。お互いがお互いを想い合っているけれども、その想いの形は同じものではない。二人はすれ違っていく。一瞬でも重なりたくて、でも。そんな二人の日々が、美しい光で染められる。
歌にしておけば 忘れないでおけるだろうか
エンディングで流れるHomecomings「Songbirds」。これが、この物語の最後のピース。これにて美しさは完成する。ポップに鳴り響くギターの音が、校舎から見おろす校庭、草薫る風が吹き上げる河原の景色、暮れかかる夕日に照らされた通学路、いろんなものを脳裏に描き出し、みぞれと希美の物語の美しさに自分たちの過ぎ去りし日が重なり合う。そして極めつけは、その歌詞にある。すべて英語で歌われるけれども、字幕で語られる日本語訳の美しさは、この映画のすべてを思い出させる。「歌にしておけば 忘れないでおけるだろうか たった今好きになったことを」。今を生きる想いをなかったことにしないために、みぞれも希美も不器用ながらに形にしようとする。その結晶が「リズと青い鳥」という音楽の演奏であり、そしてこの映画そのものなのである。
以下、ネタバレ有りです。
どちらがリズで、どちらが青い鳥か
物語の中で「リズがみぞれで、青い鳥が希美」という関係性に逆転が起きるが、これを象徴的に表しているものがいくつかある。
まずは二人で歩いている時の二人の距離感。繰り返しになるが、学校を二人で歩く冒頭のシーン、みぞれは希美のかなり後ろを歩く。希美はそのことを知ってか、途中早歩きで階段を登り、みぞれから見えなくなったところでひょっこりと上から顔を出して笑いかける。この一連の場面はやはり、希美に憧れ、ずっと一緒にいたいと思いながらも、いつか希美がいなくなってしまうのではという不安を抱える、「リズとしてのみぞれ」の比喩だろう。対して、最後の場面、一緒に帰る約束をした二人。校門で待つ希美に追いついたみぞれは、希美よりも先に門を出る、このささいなワンシーンが重要な意味を持つ。これまで希美の後ろを歩いてきたみぞれが、希美よりも前に出ようという意思をここで観ることができる。もっとも、その後の帰り道は、希美がいつものように前を歩くことになるのだが、二人の距離は冒頭のシーンのようには離れていない。みぞれは希美のすぐ後ろを歩く。「青い鳥としてのみぞれ」の無意識の決心は、不器用な形で歩くという行為に顕れている。
もうひとつ、それは生物学室。リズが動物たちに餌を与えるシーンから連続して、生物学室でフグに餌付けするみぞれが描かれることによって、「リズとしてのみぞれ」がここで示される。その直後、隣の校舎で友人と戯れる希美のフルートが反射する光がみぞれを染めていく。この時、こちら側のみぞれと、あちら側の希美を結ぶその光に、二人は気付いているが、同時にそれがとても小さくて頼りないものだともわかっている。そして、あちら側の希美は、あちら側の友達に呼ばれて、みぞれの視界からいなくなる。そこに、いつか終わりが来ることを知っている、リズと青い鳥の関係が投射される。さらに、最後の練習が終わり、自分がリズであると気づいた希美は、みぞれのテリトリーであった生物学室で泣く。ここでリズと青い鳥は逆転する。
とにかく、この映画は、二人の立場の逆転というテーマを細部の描写にまでこだわって丁寧に表現しているのである。
結局、分かり合えない。でも、
「物語は、ハッピーエンドがいいよ」。そう話す希美の想いとは裏腹に、この物語は純粋なハッピーエンドには終着しない。クライマックスの生物学室でのハグだって、希美の全部が好きだと告白するみぞれに対する希美の答えは「みぞれのオーボエが好き」、ただそれだけ。「みぞれが好き」だとは言わない。だけれども、みぞれはその言葉でオーボエを続けていく、音大でがんばるという目標を見つけることができ、希美は自分の才能の限界に気づいて将来を見据えるという前進に至った。結局二人は「互いに素」だけれど、二人の物語は前進する。
実は「互いに素」は、ひとつだけ同じ約数を共有している。それは「1」。一瞬だけ、少しだけなら、重なることができる。それを象徴するのがラスト。二人が同時に同じセリフを口にする。その瞬間だけは足音も重なって、全てが一緒になる。その後の「ハッピーアイスクリーム」は、希美に伝わらずに、また二人は「互いに素」になるのだけれども、一瞬だけでも二人は重なり合うことができた。それが人生の光なのか。"disjoint"が"joint"になって、物語はハッピーエンドを通り過ぎる。
私の理想郷を返してください
赤の他人の旅行なんて、とことん興味がないものである。
この荒涼としたインターネット砂漠に星の数ほどのさばる旅行記を見るといつもそう思う。ほら、よくバックパッカーがやってるでしょ。訪問先の国で体験したあれこれを書き連ねたブログ。確かにそういうのって、その国をこれから旅行しようとする人間にとってはとびきりに役に立つものなんですよ、実際自分も情報収集において大変お世話になっています。でも、情報源としての機能を除けば、読むに堪えない文章で構築されているものが大半。ここにに行ってきた!!!!すごいでしょ!!!!という勢いにかまけて、それはそりゃあすごいんだけれど、旅行先のコンテンツ力に頼りすぎているという感が否めない。それはなんかダサいと思うんですよ。だって書き手にも旅行にも興味がない人間からしたら、何にも面白くない。なんか「俺たち変わってるよね」とか嘯き合いながら身内ネタでしか盛り上がれない凡庸なテニスサークルみたいじゃないですか。
でも、せっかく惑星の彼方まで脚を運んで蚊に刺されたりお腹を壊してまでして経験した色々な衝撃だとか感情だとか、そういうものを誰かに伝えようという気持ちはすごく分かる。そこでわれ思う。「読み物として面白い旅行記」を書きたいと。
しかし、残念ながら三島由紀夫や村上春樹のような華麗な文章力や物語構成力は自分には皆無である。じゃあどうするか。自分という存在を見つめなおした。自分の特徴を最大限生かせればきっと3いいね位は貰える文章が書けるはずだ。自分の特徴を書き出した。
微妙に皮肉屋、陰湿、文章では強気
これだ!考えうる小物の性質をすべて滑こんだ人間ゴミ屋敷のような我の全存在を賭して、人間の負の領域に訴えかけるダークファンタジー(大げさにもほどがある)を紡いでいこう!こういう旅行記を書こうと、その機会をずっとうかがってきました。
前置きが長くなりましたが、この記事は今年2月に十日ほどの期間で旅行したミャンマーに関する物語です。この国を訪れるのは二回目。前述の通り読み物としての側面を意識していますので、若干の虚実混雑がありますが、ただちに健康に影響を及ぼすものではございません。
ミャンマー人は阿呆なのかもしれない
突然だが、ミャンマー人は阿呆なのかもしれない。こんな風に書くと、時勢が時勢だけにポリコレ婚棒の鉄槌に糾弾され、必ず除かねばならぬ邪知暴虐なレイシストとしてツイッターは炎上、なぜか菜食主義を主張するNPO団体にも名指しで批判を食らい、国際問題にまで発展、ついには住所まで特定され自宅に大量の蜚蠊が送りつけられるなどの悪戯に会い、警察のサイバー犯罪対策課に相談に行くも「最近はそういうの多いですからねー」と軽くあしらわれ、泣き寝入りせざるを得ない、あーあの時軽いノリで旅行記なんて書こうと思うんじゃなかった、そもそも椎名誠みたいな旅行記に憧れて書き始めたわけだから諸悪の根源はシーナの阿呆野郎だ、なんてブーブーと独り言をつぶやくような事態になると困るので一応釈明しておくが、ここでいう阿呆とは「踊る阿保に見る阿呆」的な阿保であり、決して知能指数とかそういった問題の話をしているわけではない。ただただ、彼らが共有する文化精神の根本から漂うひょうきんな香りに僕が魅了された、というだけの話なのであり、どちらかというと真剣にやっているにもかかわらず体育の授業で珍プレーを連発しながらも微妙に活躍するクラスメイトに対するまなざしに近いかもしれない(自分も珍プレーを見られる側だった気もするが)。
今回の旅行で様々な仏教遺跡を見てきた。そもそもこの国には大仏と仏塔が多すぎる。仏塔なんて日本じゃほとんど見ることはないけれど、この国では一つの村に一つは必ずお目にかけるし、特にバガンという地域では3000を超える仏塔が立ち並ぶとされている。大仏も無限に屹立しているが、ただ数が多いだけでなく、その大きさも桁違いでありまして、たとえば今回訪れたレーチョン・サチャー・ムニ(名前からすでに阿保そう)の大仏は高さ115.8mという鎌倉の大仏の10倍ほどの超巨大スケールであり、さらにその前に111mの寝大仏がもう一体横たわっているという大きなおまけつき。とにかく阿保みたいに大きいので、遠くからそれを眺めたとしても遠近法がさぼりやがるから、なんだか異次元の世界に迷い込んだかのよう。こういう非現実性を前にしたとき、普通は畏怖だとかそういうものを感じるのであろうが、あまりにも大仏たちが大きすぎるので、なんだか笑うしかない。偉大な阿呆である。
それから、大仏のご尊顔というのもどことなく阿呆が薫る。たとえばビャーデイペー・パヤーという寺院の大仏は、マンダレーの街を力強く指し示すポーズを取っているのであるが、その顔となると、目つきとか口元の造形とかどこか緊張感のないもので脱力する。極めつけはその横で大仏の指し示す先を見つめる従者で、何度見てもふざけているようにしか見えない。日本の大仏だとこうはいかない。たとえば鎌倉の大仏とか、あの野郎妙に威厳のある顔をしてやがるから、こちらが目の前で屁でもこうものなら、座禅を解いて空手チョップでもくらわしてきそうな威圧感を誇っていやがるが、このふざけた(失礼)顔した大仏様たちなら一緒におなら踊りを開発して踊り狂ってくれるようなそんな懐の深さを感じざるを得ない。
もちろん、ミャンマー人にとっては大まじめなのだろう。大仏や仏塔の前では、いかにもヤンキーという風貌の若者も跪いて祈りを捧げていた。日本人にはどこかふざけている感じに見える大仏たちも、彼らにとっては尊厳を持ったものであるはずだ。物の見方は人によって違う。それでもやっぱり僕は思うのだ。ミャンマー人は阿保なのではないかと。
犬っころの倒し方
犬が怖い。こんなことを言えば鼻で笑われるかもしれないが、途上国の街を歩いているとその意味が分かるだろう。こういった国には、普通に都会でも野良犬がうろちょろしてやがる。実際インドでとち狂った犬の畜生どもに追いかけられたことがある。夜明けの列車に乗るために薄暗いデリーの街を歩いていたら、目の前で犬どもが吠えている。これ以上こっちに来るなという強迫である。しかし、この道を通らなければ、大きく迂回せざるを得ない。列車の発車まで時間もない(どうせ遅れるが)。仕方なく直進すると飛んで火にいる夏の虫、犬どもが吠えまくしたて追いかけてくる。「貴様ら、きび団子程度の眼前の報酬につられて鬼退治などというブラック業務に従事する羽目になった分際のくせして、何を人間様に逆らうか」などと心の中で悪態をつくも、現前の力関係の前では御託は無力。アントニオ猪木に「ビンタでは人を元気にすることはできない」と諭すようなものである。たまたま止まっていたトゥクトゥクの影に隠れて難を逃れたが、あの時の恐怖は生涯忘れることができない。
なぜここまで犬を恐れるのか。もちろん噛まれたら痛いということもあるのだが一番は「狂 犬 病」の三文字が頭をちらつくため。万が一奴らに噛みつかれれば、僕らはたちまち狼男ならぬ犬男に成り果て、「その声は、わが友、李徴子ではないか?」と問い続けることになりかねない。あの話は虎であったからなんとか絵面が持ったのかもしれないが、汚い犬っころになった男など気味が悪くて誰も作品性を賛美しないだろう。兎にも角にも、途上国の犬っころは恐ろしいものである。
ミャンマーもそのご多分に漏れず、いささか看過できない程度の野犬が往来を我が物顔で闊歩している。ヤンゴンでは夜分道を歩いている際、路駐してある車の影から現われた犬っころに吠えられた。とにかく犬が怖い。そんなことを、マンダレーのツアーで同伴してくれたガイドに相談したら、奴らへの対処法は第一に走って逃げださないこと。やつらは走ると追いかけてくる。もしそれでも襲ってくるなら、蹴り飛ばしが有効とのこと。この若干乱暴なアドバイスに加え、こちらがビビって弱みを見せてはだめだ、大声で威嚇して精神的優位に立つことが犬退治には重要であるという事前知識を持ち合わせていたので、これらを総合して大声で絶叫しながらとび膝蹴りを食らわせるという毛利蘭的防衛術が最適解であるという結論に達した。
その術を実践する機会は早速やってきた。道端で犬どもに遭遇。「そこを通るぞ」という目つきで睨むと、奴らも「やるのかこら」という態度を取り、こちらに近づいてきやがる。そこで「おんどれ、殴り〇すぞボケ」と、知っているあらゆる罵詈雑言の中から最も脅し文句に適していると思われるフレーズを絶叫しながら奴らを蹴り上げる真似をしていたら、その形相に恐れをなしたのか、はたまた「殴る」と宣言しながら「蹴り」の準備をしている支離滅裂さに困惑したのか、犬っころどもは尻尾を巻いて逃げだした。それを見ていた現地人達は拍手喝采。その雄姿を録画していたどなたかが動画をインスタにアップ、たちまちバズって僕は「犬殺しのクレイジージャパーニーズ」として一躍時の人となったのだ。こうしてヤンゴンを舞台とした人類と犬っころとの最終決戦は、人類の大勝利で幕を閉じた。
もちろんすべて妄想である。
ヤンゴン灼熱
灼熱が鼻を撲ち、いつもの自分が消えていく。
ミャンマー最大の都市、ヤンゴン。この街は、あらゆるものを飲み込んで、その姿を肥大させていく。往来を行きかう人々が吐き捨てる噛み煙草の赤い唾液も、刻々と立ち並んでいく巨大なビルディングも、誰にも言えずに塵となる様々な思い出も、この街の一部となっていくその様を、街外れの丘上で金色に輝く巨大な仏塔が見つめている。
シュエタゴンパヤー。黄金の仏塔。円墳型の下部を台座として天上にそりたつ尖塔が伸びる。ひねもすこの国中の敬虔な仏教徒たちが跪き、全ての来世が約束される。そんな金色の仏塔に見守られて、全てを焼き払わんとする太陽に射抜かれた街のすべてが、情熱的に鼓動する。
埃っぽい熱射が、マハバンドゥラー通りを行く僕の肌を突き差す。人ごみであふれかえる往来の遠くに、僕の分身が見えて、そいつの手招きに誘われた僕は、この無限の横丁に消えていく。遠くには、黄金のシュエタゴンパヤーを乗せた東京のまちが、刹那として見えた気がした。
どうも自分はミャンマーという国を神聖化しすぎていたきらいがある。
前回訪れた3年前、まさしくこの国は理想郷に見えた。人がやさしい。バスでおなかをすかせていると隣のおっさんがミカンをくれたり、レンタルバイクが溝にはまってしまった時はみんなで助けてくれたし、迷子になって途方に暮れていると目的地までバイクで連れていってくれる人もいた。そして息をのむような遺跡群。絶対にこの国にまた来ると心に誓った。
しかし今回久しぶりに来てみると、そういう良い面だけではないということが身に染みた。初日から鬱陶しいくらいに客引きに付きまとわれたし、食堂車で食べ物の料金をごまかされたり、ヤンゴンの裏道に連れ込まれた日本人の話を聞いたり。なんだかそういう目に合うと自分の理想郷がどこかに連れていかれていってしまったようで急に不安に駆られてしまう。
それでも、この国が好きである。悪い人間もいるけれども、ほとんどの人はやさしいしとても気さくだ。そして何より、この国ではさまざまな想定外の感情に出会うことができる。そのことを今回筆を執ってみて再認識させられた。理想の中で膨らむイメージをこの国は拒み続ける。理想は更新され続ける。なぜならそこに住む人々の生活はかたちを変えながら続いていくから。
いつかこの国を再び旅するだろう。その時にまたつぶやくのだろう。私の理想郷を返してくださいと。
国分拓「ノモレ」
集団の記憶というものが、ある。
脳裏に蘇る光景が、なんだか自分一人の記憶でない気がしてくる。それは確かに僕が見た景色なのだけれども、
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アマゾン奥地で文明社会との接触を断って暮らすイゾラドとの接触を、「文明化された」先住民の目線から描いた国分拓「ノモレ」。ノンフィクションとしての面白さとと、手に汗握る物語の共住。そして、随所で語られる共同体としての記憶に触れる時、一つの身体に縛られない文学のあり方に気付くだろう。圧倒のエンターテインメント・ドキュメントに、ぜひ目を通すべし!
ミツメ「エスパー」
あれは高校二年生の時だったか。冬。新宿のタワーレコードであるポップが目に入った。「スピッツとくるりのいいとこどり」たしかこんなうたい文句だったと思う。視聴してみた。泣いた。こんなにも自分の理想と合致したバンドがあることに、舞い上がってしまうような嬉しさと、先を越されてしまった悔しさがこみ上げた。「クラゲ」という曲。ミツメのファーストである。
ポップというものは才能である。そのメロディに乗せる日本語の感性はもっと天性のもの。だからスピッツは偉大なのだ。そしてミツメ。甘美なツインギターが鳴らすメロディはどこか寂しさも含みながら感情の奥深くに染み渡る。どこかで見た景色、いつか抱いた感情。「甘い夢 旅に出て 何もかもぐしゃぐしゃに」「君の夢 僕の肌 触れたくて さかさまに僕らは飛び出す」「コーラ自販機で買って 飲みながら帰ろう どこにでもあって 君思い出すね」流れるように後ろ向きな言葉たちが想いの懐をかすめていく。ギター二人、ベース、ドラムという王道のバンド編成もまた最高だ。まさしくスピッツの正当な後継者。しかし、次作で彼らはそんな期待をはるか斜め上に飛び越えていく。
四畳半ロックとでもいうべきファーストの空間を壮大なスケールで飛び越えていく。シンセサイザーの爆音の中で僕らは宇宙に包まれる。遠くにモノクロの海が見える。「次に住むなら 火星の近くが良いわ ここじゃなんだか 夏が暑過ぎるもの」というリリックも最高だ。根底にあるポップの精神はそのままに、一つ上の次元に。日本の音楽シーンはもとより、なにか10年代という時代が人類史の新たな境地にたどり着いてしまったかのような心地を感じた。
それからのミツメは、やや自分の理解の届かないところへと音楽性を進めてしまった感が否めないのだが、今年10月に久々に見たライブでその技量の深化に圧倒された。何といってもカッコイイ。演奏力は格段に向上したし、何よりも新曲。それはスピッツだった。紆余曲折はあったが、それまであちこちを彷徨った音楽性の体験を通して、ファーストのポップさをさらに昇華させた完璧な一曲であった。
その新曲「エスパー」のMVが公開された。コメント欄にある「何もかも思い出した。」という一言がぐっとくる。必聴。
スピッツ『オーロラになれなかった人のために』
エスキモーの言い伝えによると、死んだ人間はオーロラになるという。「オーロラになれなかった人」とは、「死んでも死にきれなかった人」であろうか。死と生の境界線は日常の感覚よりもはるかに曖昧で、その間を魂は簡単に飛び越えていく。それは生から死への一方向だけでない。逝っちまったあいつのことを想うとき、そいつはひょっこり蘇る。そう信じていたいし、思い出すことがこっちに留まる人間の役目では。なんだか説法みたいになってきたが、別に新興宗教を開いて一山の財産を築こうとか思っているわけじゃなく、ぽえまーとして認めてほしいわけでもなく(多少の承認欲求は認める)、ただ単純に色んなことを忘れずに長生きしてーなーってこと。草野正宗が歌っているのも、多分そういうことなんだろう。
今日一日だけでいい 僕のとなりでうたっていて
「うみねこ」