くま井ゆう子「みつあみ引っ張って」

初めてそれを感じたのは、祖父母の家へと向かう車の窓から街の鉄塔を眺めた時だったと思う。幼少の自分は、決して触ることのできない記憶の破片が心の何処かに隠されていることを知った。思えば自分の人生は、その瞬間に芽生えたあの謎の感情を追い求める人生であったと思う。車窓を流れる知らない街の景色であったり、空気公団の音楽であったり、『ジョゼと虎と魚たち』の美しいカットであったり、そういったものたちが与えてくれる憂と哀しみに心を沈めてきた。この曲も、また、同じ境地に自分を導いてくれる。

まさに隠れた名曲だ。『三丁目のタマ』というこれまた隠れた名作アニメ(小学校の漢字ドリルのキャラクターだ!)のエンディングテーマであるこの曲を知っている人は果たしてこの世界にどれほどいるのだろうか。懐かしさを薫らせるシンセのサウンド、端正な憂に満ちたメロディ、そして「あのとき」にとりつかれた歌詞のどれをとっても申し分ないのである。特に好きなフレーズがここ。

コーヒー飲んで苦いフリした

あの夏の海はとてもまぶしかった

苦くないフリをするのがベタだと思うのだけれど、逆を行く歌詞に不意をつかれる。無敵の青春真っ只中にありながら、大人になりたくないなんて気持ちを抱えてしまう寂しさ、そしてそんな日々も後ろに過ぎ去ってしまった「今」から振り返る「あのとき」の眩しさに、心が砕け散ってしまいそうになる。

マスクと動揺

マスクを発掘した。そろそろ持ち合わせが切れそうで、どうしようかと悩んでいたところだった。引越しの際に念のため買っておいた一箱分が食器棚の奥にそのまま放置されていた。ひとまず向かう2ヶ月は困らないだろう。

それにしてもこの騒動の影響力はたいへんなものである。普段割と社会と接点を持たない自分の生活にもしっかりと忍び込んできやがった。毎日ネットで情報を漁り、働き方も変わり、マスクを見つけて大喜びしている。かなり俗っぽいではないか。

いまが大変な事態であることは間違いない。罹患して苦しむ人や、自粛風潮によって職を失う人もいるだろう。自分の身だってわからない。それでも、とても不謹慎だと思うのだが、この非常事態に妙な高揚感を覚えてしまう自分がいる。

そういえば、9年前も似たような精神状態にあった。あの日から数週間の異常な有り様は今でも易々と思い出すことができる。流れ続ける不気味なACのCMを背景音に、あの時の自分はたしかに世界とともに揺れていた。社会と自分の動揺がリンクしているという異様さがアドレナリンを分泌させていたのだろう。

非常事態の最中こそ、私たちは社会の中で生きていることを実感する。それは人々の中に燻るある種の感情を刺激するだろう。世界に包まれている感覚に心地よさを覚えることは間違いではないと思う。大ヒットしたポップミュージックに聴き入るようなものだ。それはそれで良いと思う。ただ、そこには危険も伴う。世界に包括されることの快楽にかまけて、自己の全てを預けてしまわないように生きていきたい。

ここしばらく

ここ数日はNetflixで『水曜どうでしょう』三昧だ。ベトナム縦断編、ずっと爆笑している。脱輪したまま放置された大型バス、フロントガラスの大破した対向車、接触事故を恐れぬバイク乗りたち。カブ旅のなかで出会う、日本の基準を激しく逸脱した景色たちの馬鹿馬鹿しさの前に私たちはただ笑うしかないのである。旅慣れていくなかで忘れてきてしまったアジアの混沌さに対する純粋な驚きを思い出させてもらっています。また旅に出よう。

 

さて、aikoのサブスク解禁も一大トピックでろう。健全な日本国民なので正座して聴きびたっております。熱心なファンというわけではないなだけれど、aikoの存在しない世界線は考えられないと思うくらいには好きだったりする。なぜそんな風に思うのかはよくわからないけども。aikoの前では批評すら野暮である、という認識はあるのですが、あえて語らせてもらうと、彼女のボーカルの独自性は子音"t"と"s"の歌い上げ方にあると主張したい。どうでもいいけど。

 

『ジョゼとトラと魚たち』が好きすぎて、サントラをヘビロテ。池脇千鶴サガン『一年ののち』の一冊を読み上げるだけのトラックが素晴らしいのである。

 

"いつかあなたはあの男を愛さなくなるだろう"と、ベルナールは静かに言った。"そして、いつか僕もまた貴方を愛さなくなるだろう"

『われわれはまたもや孤独になる。それでも同じ事なのだ。そこに、また流れ去った1年の月日があるだけなのだ…』

"ええ、わかってるわ"とジョゼが言った。

 

この言葉に惹かれて『一年ののち』をAmazonで注文した*1。読んだ。ここには、今この時の自分のすべてが描かれていると思った。そのような文学体験はなかなか味わえるものではない。人生で何度も読み直す本に出会えた気がする。

 

 

 

*1:本当は映画に出てくる単行本版が欲しかったのだが、8000円くらいするので文庫版で我慢した

角幡唯介『旅人の表現術』

 

旅人の表現術 (集英社文庫)

旅人の表現術 (集英社文庫)

 

ノンフィクション本大賞『極夜行』で一躍名を馳せた極地旅行家兼ノンフィクション作家・角幡唯介。本書は、彼がこれまで発表してきた対談や書評をまとめた一冊である。本書の魅力は、繰り返し語られるふたつのテーマ—「人が冒険する理由」「書くことと旅することのジレンマ」—に凝縮されている。

なぜ人は冒険するのか。氏の見解では、まず冒険とは「脱システム」的な行為である。すなわち、「体制(システム)としての常識や支配的な枠組みを外側から揺さぶる行為」であり、それは結果的に、開高健の言葉を借りるなら、むき出しの死に溢れた<荒地>へと向かうことを意味する。<荒地>は、自然本来の荒々しさを失い文明によって生の確保された日常では決して味わうことのできない死の香りが充満している。つまり、死を生に取り込むことによって生が充足されるという逆説的な行為こそ冒険であり、人はそれを通して惰性の生に意味を与えているということのようだ。

また旅人にとって、自分の行為の純粋性に疑問を持つ瞬間が必ずあるものだ。それは、果たして自分の行いが果たして「純粋な」志向から放たれたものなのか、表現のための演出として紡がれたものなのか、その区別がつかない場合が少なくないということである。たとえば、北京経由でのツアー参加で北朝鮮へ旅行するとして、その訪朝という行為は、北朝鮮を一度見てみたいという「純粋な」願望から生まれたものなのか、はたまた「俺は北朝鮮に行ったことがあるんだ」という武勇伝的な語り草を発しての「不純な」動機に端を発した演出かのか、自分でも分からないということは考えられるだろう。この問いに対して、前問のような明確な答えは本書では示されていない。しかし、この表現と行為のジレンマは、冒険という一行為に留まらず、生きること全般に関わってくる問題であり(あの時の私の行いは、私という自我が主体的に選び取ったものなのか、はたまた傍観者的な目線を意識した行いであったのか、のようなこと)、すべての人間が考えぬかければならないテーマではないだろうか。

兎にも角にも、本書の魅力は冒険という不合理な行為に対して、言語によって明瞭な自己弁護を図ろうとする哲学的態度にある。旅人でも、そうでない人でも、一度読んでみていただきたい。自分の行為にどのような意味があるのか、そんな面倒だが大切なことを考えるきっかけになるはずだ。

チェーンメールの思い出

思い返すと2000年代は今よりもだいぶいかがかわしいものに溢れた時代であった。今であればググれば一発でわかるようなデマとか悪戯もも横行していたように思える。そのひとつがチェーンメールだ。21世紀を迎えたこの時期に、不幸の手紙のようなあからさまな非近代的諸行は流石に流行らなかったが、今でも記憶に残っているのはテレビ番組『学校へ行こう』を騙ったものである。当時はもちろんLINEなどなく、ガラケーのキャリアメールが人々のコミュニケーションツールを一手に担っていたと思う。ガラケー自体についても一晩みっちり語りたいという願望があるのだが今回は割愛しよう。とにかく、ある日突然こんな内容のメールが友人から届いたのを覚えている。

 

チェーンメールじゃないよ。テレビ番組「学校へ行こう」でメールがどこまでつながるかをV6が実験競争中だそうでスタートがV6 の森田剛くんから始まってとうとう回って来ました。これと同じメールを10人に送ってください。この結果は5月24日夜8時放送です。
絶対に止めないでねお願いします!

 

この文章自体はネットからの拾いものなので、自分も15年ぶりくらいに目を通したのだが、懐かしさに胸が痛めつけられて過ぎ去った日々のかけがえのなさを思ったり思わなかったり。当時は小学校高学年だったな、『デスノート』にハマってたな、とかとめどなく思い出がこぼれ出してどうしようもない。また話が脱線しそうなので本題に戻すと、文面が妙にリアリティを持っているから騙されるガキンチョたちもたくさん出たことだろう。加えて、これが見ず知らずの人から送られて来れば鼻垂れ小僧でも怪しいと思うのであるが、リア友(これも懐かしい)から送られてくるのであるから信憑性が高まってしまう。しかし、これを送ってきた友人に誰から回ってきたのか聞いたか否かの記憶が曖昧である。それを辿っていけば、悪戯の発信地に迫ることもできたろうに、そんな心躍るような絶好の機会を当時の自分はみすみす逃したことになる。まったく、少年ならもっと冒険心を持たなければだめだろう。

豊田徹也『アンダーカレント』

たまたまブックオフで100円で売り出されていたために購入した『アンダーカレント』という単巻完結のコミックが思いの外素晴らしかった。とても映画的な作品である。あらすじ。主人公のかなえは、夫の突然の失踪に戸惑いながらも家業の銭湯経営に邁進する。従業員として雇用した同年代の男性堀と微妙な距離感を保ちながら、物語は終始「不在」の外周を回り続ける。夫はなぜ姿を眩ませたのか、銭湯従業員を敢えて志望した堀の真の目的とは、そしてかなえの抱える心の闇とはいったい…。徐々に明らかとなるさまざま事実を、語りすぎず、一方的な解釈の押し付けを排して描いていく様が気に入った。それに、あだち充作品に登場しそうな愉快さと実直さを持ち合わせた愛すべきキャラクターたちもまたいいのだ(サブ爺というおっせっかいな三枚目キャラは『タッチ』の原田を喚起させる)。そして、『わたしは光を握っている』を鑑賞した際にも思ったのだが、銭湯はとても優れた舞台装置たりうることを改めて実感させられた(水の輝き、壁一枚で男湯女湯が限られた空間構造など)。映画化して欲しいな。

アンダーカレント  アフタヌーンKCDX

アンダーカレント アフタヌーンKCDX

 

 

 

ここしばらく

ずっと観たかった『ロマンスドール』を観賞。ベタな演出や不要な場面が目立ち完成度に不満は残るが、狂気を直視しようとする高橋一生の演技に見入ってしまった。ただ、あの爽やかなラストはどうなんだろうか。創作をテーマにした作品はどうしても『地獄変』と比較してしまうのでヌルさを感じざるを得ない。話は変わって、ついにNetflixにも加入したのである。早速『ストレンジャーシングス』を見ているんだけど面白いです。海外ドラマを殆ど見てこなかったのでここから巻き返していきたい。『全裸監督』『火花もこれから手を出そうと思う。ただ、読書の時間が減ってしまうかもしれないので悩みどころ。町屋良平『坂下あたると、しじょうの宇宙』を読んだが、筆者特有の文体がないようにぴったりハマっていた。詩作に没頭する高校生を描く。独特なひらがなの使い方がとてもフラッシュだ。そのほか、前田司郎『愛でもない青春でもない旅たたない』(装丁も素晴らしい!)玄侑宗久『中陰の花』辻仁成『海峡の光』も良かったのであるが、積読が無限に増えているのでどうにかしたい。そういえば槇原敬之が捕まったのでリピートしている。ポップミュージッシャンとしてこれほど洗練された人間はいないだろう。中学時代よく聴いてたな。

 

坂下あたると、しじょうの宇宙

坂下あたると、しじょうの宇宙

 
愛でもない青春でもない旅立たない (講談社文庫)

愛でもない青春でもない旅立たない (講談社文庫)

 
中陰の花 (文春文庫)

中陰の花 (文春文庫)

 
海峡の光 (新潮文庫)

海峡の光 (新潮文庫)

  • 作者:辻 仁成
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/02/29
  • メディア: 文庫