「#うちで踊ろう」騒動に思う

あまり政治的な問題には立ち入らないようにしてきた。あらゆる主張や表現が人を離れてイデオロギーの問題に回収されてしまう気がして気に食わないからである。それでも今回の騒動にはさすがに呆れ返ってしまって、心のだいぶ深い個所から感情のあれこれが吹き上げてきてしまっので、言いたいことを言わせてもらう。騒動の発端は、安倍晋三首相が自身SNSに以下のような動画をアップしたことにある。

 

 

そもそも「#うちで踊ろう」とは、いちいち説明するのも野暮であるが、今回のコロナ禍で興隆した”StayAtHome"運動の一環としてミュージシャンである星野源が弾き語り楽曲を用意し、自由に伴奏やコーラスを重ねて投稿してもらうように呼びかけたムーブメントである。4月2日の星野のインスタグラムへの投稿以来、このハッシュタグに対する反響は日に日に大きさを増していき、三浦大知渡辺直美といった有名人から無名の人々まで様々な人物によってコラボ動画がアップされていった。そういった運動に対し、家にいても生活に支障のないような上級国民による呑気な自慰行為だという批判もあるが、総体的に見れば暗い時勢に生きる人々を励ますための草の根運動といったポジティブな評価をなされることが多かったと思う。

今回投稿された動画では、星野源の歌に合わせて首相自らが家内で優雅に休日を過ごす姿がマッシュアップされている。タイムラインやトレンドを眺めると、いちばんはその無神経さがやり玉に挙がっているように思える。国難とも呼ぶべき有事に際してたくさん苦難に立ち会っている人々がいるにも関わらず、国のリーダーとなるべき人間が呑気に家でだらだら過ごしている姿を見せられてしまえば、それは確かに士気が下がるし、あまりに民心に無頓着が過ぎるだろうとは私も思う。マリー・アントワネットを想起するという意見も上がっていて面白かったりする。それから、音楽を政治利用されたことに対する憤りもよく見かける。当事者である星野源*1はいまだに口をつぐんでいるが、一表現者が始めた草の根運動が、権力者である首相の人気取りのために利用される様は搾取とかそういったものを超えたおぞましさを感じさせるのであろう。更に火に油を注いだのは、音楽業界が自粛圧力問題で真っ先にあおりを受けた業界であるということである。ご存知の通り、エンタメ業界に対する補償については具体的な話が進んでいない。それにもかかわらず、音楽業界が用意したムーブメントを利用するのかという批判は的を射たものであろう。

しかし、私が最も批判したいのは、単純に動画が全く面白くないという、そのことに尽きる。とにかくダサいしつまらない。いい年したおっさんの日常をいまこのタイミングで見たいと思う人なんて誰もいないだろう。いったいこの動画のどこを評価してもらえると思ったのか。黙ってないで歌えよ。下手でもいいから楽器でも演奏しろよ。スベってもいいから楽しませようとしろよ。首相という立場の知名度を利用すれば、ただ既存のムーブメントに乗っかるだけで、中身を対して考えても人々にウケるだろうというその横柄な姿勢が一番気に食わないのである。音楽家であろうが芸術家であろうが芸人であろうが、どんなジャンルに置いても無名の表現者たちは何の後ろ盾もない中で、人に素晴らしいと思ってもらえるようなものを必死になって作り出そうしているにも関わらず、こんな手抜きの動画を作って恥ずかしくないのか。イデオロギー問題にのみ還元されてしまうような狭義での政治性を抜きにして、この権力に胡坐をかいた表現的怠慢を私は非難したい。これは、エンターテインメントや芸術一般に対する、いや、市井に生きるすべての人々に対する侮辱なのである*2。だから私は今回の一件を痛烈に非難させてもらう。

*1:星野源は本当に不憫だ。首相の独善に巻き込まれただけでなく、音楽業界や左派からは首相批判の役割を勝手に期待されている。挙句の果てには、そういった板挟みに追い込まれてきたのはこれまでノンポリを貫いたツケであるという極論めいた意見すら上がっている。そういった主張こそ音楽の、そして星野源という人間の政治利用だと私は思う。

*2:音楽にあわせてラップでも披露するくらいのユーモアがあれば支持率爆上がりだっただろうに

ここしばらく

2020/4/4(土)

昼過ぎ、本当に久しぶりに街に繰り出す。書店で『映像研には手を出すな』全5巻を大人買いしてしまった。アニメを追いきれなかった後悔は深い。あまり人が多そうでない小さめのスーパーに立ち寄って買い出ししようと思ったが品ぞろえが少なく、結局自転車を漕いでやや混みのサミットに足を踏む混んでしまった。少し走った後、自炊。焼きそば、おいしかった。19時から友人たちとリモート飲み会(酒飲んでないけど)。オンライン大富豪を久々にプレイした。また、空いた時間で滝口悠生『高架線』を読み返す。やっぱり大名作だ。自分の中で、氏の作品の最高傑作を『死んでいない者』と争う。

 

2020/4/5(日)

休日ながら少し早起きして『高架線』を最後まで読み切り記事もアップした。昼食後、先週の続きで、Netflix partyを使って友人と『火花』の6話から最終話までを視聴した。特に8話から怒涛の展開だ。劇的ではないが現実であれば避けて通れないシーンもしっかり描き切っており素晴らしい。最終話のラスト漫才は、映画版でも泣いてしまったが、今回も。ただ、これまた引き続きNetflix partyが上手く機能せず。特にチャット機能が途中で固まる。結局LINEでチャットし合うというなんだかという感じ。夜は小山田壮平ツイキャスライブに聞き入った。いつもはゲリラ開催だが今回は事前告知がなされていたのでよかった。画面越しとはいえ、生で「1984」「16」を聞くことができたのは幸せだ。憂が少し晴れた。

 

2020/4/6(月)

ついに緊急事態宣言を発令する準備に取り掛かるとのこと。かなり婉曲な表現なので実際に宣言されるのはかなり先かなと思っていたのだが、明日には発令されると聞いて少し戸惑う。だからと言って、すでにテレワーク生活3週間目に突入している自分の生活に大きな変化が起こるわけでもないのだが。最近注目している作家渡辺優の文庫最新作『アイドル うごめく星たち』を読み終えた。浅井リョウ的で人物の内面もかなりリアルに感じたがあと一歩物足りない印象を覚えたのはなぜだろうか。ただの群像劇だと新鮮味が少ないのかもしれない。

 

2020/4/7(火)

緊急事態宣言当日。すでに前日から予告はくらっていたため心の準備はできていたはずだが、仕事のうえでは取引先店舗が続々と長期休業を決定しその対応に追われる。さすがに世紀末感がぬぐえない。19時に退勤。とはいっても在宅勤務なのでそのままプライベートに突入である。テレビをつけるとちょうど首相による宣言の記者会見が開かれていた。非常時であるという実感がさらに湧いてきてちと不安になったので、走りに出かける。夜飯は、朝コンビニで買いだしたサバの塩焼きと豚汁。最近夕食時に酒分の摂取が続いていたが、今日は自販機で買った炭酸水をお供に。悪くないが、強炭酸は腹が膨れるのが難点か。昨晩から読み始めた日本文学全集『古事記』が面白い。何が面白いのか説明が難しいのだが、スサノオとか天照大御神が主人公として描かれたとおもったら敵役で再登場したりと、スターウォーズみたいだ。見たことないけど。それにしてもこの国には神様が多すぎる。

滝口悠生『高架線』

 

高架線

高架線

  • 作者:滝口 悠生
  • 発売日: 2017/09/28
  • メディア: 単行本
 

 どろどろに煮込んだカレーにはたくさんのスパイスや具材が溶け込んでいるかもしれないけれど、出来上がるころになればその一つ一つはもとの形もわからないほどぐちょぐちょになってもう何が何だか分からなかったりする。そりゃあ、じゃがいもやにんじんのようにそこそこ原型をとどめるやつもいるが、たいがいはそんなもの入ってたのという感じで忘れ去られていくものであろう。それでも、その得体のしれないものたちがなければカレーの深みとか風味だとかそういうものは成立しないわけで、よくわからない消えていった何かに思いを馳せながら食べ物をほお張るのもわるくはない。

おもえばわれわれの生活も似たようなもので、いつもより5分早く目が覚めたとか、箪笥にこゆびをぶつけて痛かったとか、「今日暇?」ってLINEにどう返事すべきかしばらく悩んだとか、本当にどうでもいいことがらばかりで成り立っているし、そういうくだらない生活の集積が社会ってものなんでしょう。コンビニのレジに立つ知らないおっさんにも生活があっていろいろと大変なのだろう。この世はくだらないものたちのごった煮なのだから、すべての人のすべての行いは公的文書と同じようになんらかの形で保存されるべきなんだろうけど、げんじつ問題としてそんなことは不可能であるから忘れ去られていく。かなしい。だから、じぶんのおもったことやかんじたことはなるべく覚えていたいとおもう。

『高架線』という作品についてかたりたい。舞台はとあるおんぼろアパートの一室。代々の入居者とのそのまわりのひとびとのストーリーが、まあ筋もおぼろな物語のたまごみたいなものだけど、それが思わぬかたちでつながっていって、すこしおおきな川になる。その過程で、主観が溶けていく。なんだかわたしという存在が溶けきって、われわれという呼びかたでじぶんを語るようにいつのまにかなっていてそれが気持ちよい。そして、滝口悠生という書き手はとても優しいので、きえてなくなりそうなひとの営為に暖かいまなざしを用意してくれる。どんなにくだらなくても、人が生きる中で生じる呼吸音をだいじにしてくれる。最後に私が一番すきな場面を引用して終わりにしよう。独特のリズムで空き缶をたたき出した人物ともう一人とのたわいもないやりとりだ。

 

それ、なんていうリズム?

いや別に、なんていうのとかじゃない、いま思いついたのを叩いているだけだから。

それって明日もう一回同じのを叩こうと思ったら叩けるの?

これと同じリズムを?

そう

それは無理かな。

無理なんだ。

まったく同じのは、無理かな。

二度と?

二度と無理かな

くま井ゆう子「みつあみ引っ張って」

初めてそれを感じたのは、祖父母の家へと向かう車の窓から街の鉄塔を眺めた時だったと思う。幼少の自分は、決して触ることのできない記憶の破片が心の何処かに隠されていることを知った。思えば自分の人生は、その瞬間に芽生えたあの謎の感情を追い求める人生であったと思う。車窓を流れる知らない街の景色であったり、空気公団の音楽であったり、『ジョゼと虎と魚たち』の美しいカットであったり、そういったものたちが与えてくれる憂と哀しみに心を沈めてきた。この曲も、また、同じ境地に自分を導いてくれる。

まさに隠れた名曲だ。『三丁目のタマ』というこれまた隠れた名作アニメ(小学校の漢字ドリルのキャラクターだ!)のエンディングテーマであるこの曲を知っている人は果たしてこの世界にどれほどいるのだろうか。懐かしさを薫らせるシンセのサウンド、端正な憂に満ちたメロディ、そして「あのとき」にとりつかれた歌詞のどれをとっても申し分ないのである。特に好きなフレーズがここ。

コーヒー飲んで苦いフリした

あの夏の海はとてもまぶしかった

苦くないフリをするのがベタだと思うのだけれど、逆を行く歌詞に不意をつかれる。無敵の青春真っ只中にありながら、大人になりたくないなんて気持ちを抱えてしまう寂しさ、そしてそんな日々も後ろに過ぎ去ってしまった「今」から振り返る「あのとき」の眩しさに、心が砕け散ってしまいそうになる。

マスクと動揺

マスクを発掘した。そろそろ持ち合わせが切れそうで、どうしようかと悩んでいたところだった。引越しの際に念のため買っておいた一箱分が食器棚の奥にそのまま放置されていた。ひとまず向かう2ヶ月は困らないだろう。

それにしてもこの騒動の影響力はたいへんなものである。普段割と社会と接点を持たない自分の生活にもしっかりと忍び込んできやがった。毎日ネットで情報を漁り、働き方も変わり、マスクを見つけて大喜びしている。かなり俗っぽいではないか。

いまが大変な事態であることは間違いない。罹患して苦しむ人や、自粛風潮によって職を失う人もいるだろう。自分の身だってわからない。それでも、とても不謹慎だと思うのだが、この非常事態に妙な高揚感を覚えてしまう自分がいる。

そういえば、9年前も似たような精神状態にあった。あの日から数週間の異常な有り様は今でも易々と思い出すことができる。流れ続ける不気味なACのCMを背景音に、あの時の自分はたしかに世界とともに揺れていた。社会と自分の動揺がリンクしているという異様さがアドレナリンを分泌させていたのだろう。

非常事態の最中こそ、私たちは社会の中で生きていることを実感する。それは人々の中に燻るある種の感情を刺激するだろう。世界に包まれている感覚に心地よさを覚えることは間違いではないと思う。大ヒットしたポップミュージックに聴き入るようなものだ。それはそれで良いと思う。ただ、そこには危険も伴う。世界に包括されることの快楽にかまけて、自己の全てを預けてしまわないように生きていきたい。

ここしばらく

ここ数日はNetflixで『水曜どうでしょう』三昧だ。ベトナム縦断編、ずっと爆笑している。脱輪したまま放置された大型バス、フロントガラスの大破した対向車、接触事故を恐れぬバイク乗りたち。カブ旅のなかで出会う、日本の基準を激しく逸脱した景色たちの馬鹿馬鹿しさの前に私たちはただ笑うしかないのである。旅慣れていくなかで忘れてきてしまったアジアの混沌さに対する純粋な驚きを思い出させてもらっています。また旅に出よう。

 

さて、aikoのサブスク解禁も一大トピックでろう。健全な日本国民なので正座して聴きびたっております。熱心なファンというわけではないなだけれど、aikoの存在しない世界線は考えられないと思うくらいには好きだったりする。なぜそんな風に思うのかはよくわからないけども。aikoの前では批評すら野暮である、という認識はあるのですが、あえて語らせてもらうと、彼女のボーカルの独自性は子音"t"と"s"の歌い上げ方にあると主張したい。どうでもいいけど。

 

『ジョゼとトラと魚たち』が好きすぎて、サントラをヘビロテ。池脇千鶴サガン『一年ののち』の一冊を読み上げるだけのトラックが素晴らしいのである。

 

"いつかあなたはあの男を愛さなくなるだろう"と、ベルナールは静かに言った。"そして、いつか僕もまた貴方を愛さなくなるだろう"

『われわれはまたもや孤独になる。それでも同じ事なのだ。そこに、また流れ去った1年の月日があるだけなのだ…』

"ええ、わかってるわ"とジョゼが言った。

 

この言葉に惹かれて『一年ののち』をAmazonで注文した*1。読んだ。ここには、今この時の自分のすべてが描かれていると思った。そのような文学体験はなかなか味わえるものではない。人生で何度も読み直す本に出会えた気がする。

 

 

 

*1:本当は映画に出てくる単行本版が欲しかったのだが、8000円くらいするので文庫版で我慢した

角幡唯介『旅人の表現術』

 

旅人の表現術 (集英社文庫)

旅人の表現術 (集英社文庫)

 

ノンフィクション本大賞『極夜行』で一躍名を馳せた極地旅行家兼ノンフィクション作家・角幡唯介。本書は、彼がこれまで発表してきた対談や書評をまとめた一冊である。本書の魅力は、繰り返し語られるふたつのテーマ—「人が冒険する理由」「書くことと旅することのジレンマ」—に凝縮されている。

なぜ人は冒険するのか。氏の見解では、まず冒険とは「脱システム」的な行為である。すなわち、「体制(システム)としての常識や支配的な枠組みを外側から揺さぶる行為」であり、それは結果的に、開高健の言葉を借りるなら、むき出しの死に溢れた<荒地>へと向かうことを意味する。<荒地>は、自然本来の荒々しさを失い文明によって生の確保された日常では決して味わうことのできない死の香りが充満している。つまり、死を生に取り込むことによって生が充足されるという逆説的な行為こそ冒険であり、人はそれを通して惰性の生に意味を与えているということのようだ。

また旅人にとって、自分の行為の純粋性に疑問を持つ瞬間が必ずあるものだ。それは、果たして自分の行いが果たして「純粋な」志向から放たれたものなのか、表現のための演出として紡がれたものなのか、その区別がつかない場合が少なくないということである。たとえば、北京経由でのツアー参加で北朝鮮へ旅行するとして、その訪朝という行為は、北朝鮮を一度見てみたいという「純粋な」願望から生まれたものなのか、はたまた「俺は北朝鮮に行ったことがあるんだ」という武勇伝的な語り草を発しての「不純な」動機に端を発した演出かのか、自分でも分からないということは考えられるだろう。この問いに対して、前問のような明確な答えは本書では示されていない。しかし、この表現と行為のジレンマは、冒険という一行為に留まらず、生きること全般に関わってくる問題であり(あの時の私の行いは、私という自我が主体的に選び取ったものなのか、はたまた傍観者的な目線を意識した行いであったのか、のようなこと)、すべての人間が考えぬかければならないテーマではないだろうか。

兎にも角にも、本書の魅力は冒険という不合理な行為に対して、言語によって明瞭な自己弁護を図ろうとする哲学的態度にある。旅人でも、そうでない人でも、一度読んでみていただきたい。自分の行為にどのような意味があるのか、そんな面倒だが大切なことを考えるきっかけになるはずだ。